皆さん、こんにちは!
霧隠です。

八王子城にてミニオフを開催したので、そのときのことをご報告いたします。
今回は少数精鋭だったので、太鼓曲輪と石敷き水路以外の全ての遺構を確認でき
ました。

ご参加いただいた皆さん、お疲れ様でした。
山城の楽しさを十二分に楽しめたかと思いますが、次回は迷子にならないように
気をつけまする〜

・・・まぁ、何事も経験、経験と(−−)

さて、八王子城。
東京は新宿駅から京王線、JRともに1時間の場所にある「高尾駅」にて下車。
北口からバスに乗ってわずか5分。
「霊園前」にて下車。
そこから徒歩で10分(バス停のすぐ行った道を左に入ります)
八王子城跡にたどりつきます。
(タクシーでも800円くらいでたどりつきます)

都心から電車で1時間ばかりのところに、総面積154万?という一大山城が存在
します。

ふもとから本丸、詰の城、富士見台まで広大な城域をくまなく歩こうとすると5
時間あっても足らないくらいの規模です。

日本全国を見渡しても決して遜色しない規模の山城、八王子城。

このお城を築城したのは、北条氏照公です。
氏照公は、北条家の始祖、北条早雲公の嫡孫、3代氏康公の次男として生まれま
す。
その後、大石氏の養子に入り、滝山城城主になります。
そして、滝山城の城主として、相模の国の防衛にあたります。

しかし、北関東に進出を続ける北条氏に強力なライバルが出現します。

甲斐の虎、武田信玄公です。
時は永禄12年(1569年)。
甲斐(山梨県)の国の守護として発展した武田氏は、信玄公の時代に信濃(長野
県)を併合して、その後上野(群馬県)、駿河(静岡県東部)と領土を広げ、つ
いに関東に根をはる北条氏とぶつかります。

歴史に名高い武田信玄公の小田原攻めです。
そのときに信玄公は北条氏照公が守る滝山城を落城寸前まで追い詰めます。
そのときは二の丸まで攻められたということです。

このときのにがい経験から、また何よりも小田原城を北からの侵略から守るため
にも強固な城を築く事を決心したのだと思われます。

氏照公は滝山城からは西南に約7kmの距離になる八王子山に居城を移します。
この時期がいつだったかははっきりしないようです。
通説では、天正10年(1582年)ころから織田氏、豊臣氏に備えるために築城を
始めたといわれております。

築城に際して、氏照公は織田信長公の安土城を参考にしたのではないかと言われ
ています。
それはなぜかというと、天正8年(1580年)、間宮若狭守綱信が氏照公の使
者として安土城の織田信長を訪問している記録が残っています。
つまり、氏照公は家臣から安土城の様子を聞き知っているのです。
そして、八王子城の大手道は、安土城を模したかのような豪勢で幅広い石敷きの
道になっており、一瞬安土城にいるかのように錯覚します。

ここで、お城の一般的な話をいたします。
お城には、平城、平山城、山城という区分があります。
おもに標高でわけるのですが、平城とは名古屋城、大阪城のように平野に築城さ
れたお城です。
平山城とは、姫路城、彦根城、伊予松山城などちょっと小高い丘の上に築城され
たお城です。
山城とはその名の通り、標高200m以上の山の頂上に築城されたお城で、有名な
ものに上杉謙信公の居城、春日山城、毛利元就公の居城、吉田郡山城、斎藤道三
公の居城、稲葉山城などがあります。

歴史的に見ると、山城→平山城→平城と段々山から平野にお城を築く場所も移り
変わってきていたようです。

室町時代にはおもに、豪族達がそれぞれの土地の最も見晴らしのいい山にお城を
築城しましたが、戦国時代も終わりに近づいてくると、標高が高く、移動に不便
な山城よりも、より領地支配に好都合な平山城や平城に移行していったようです。

西日本を支配した豊臣秀吉公が築城したのは、平城の大阪城ですし、毛利輝元公
は山城である吉田郡山城を捨て、海に近い平城広島城に居城を移します。

戦の心配がなくなった江戸時代にはほとんどのお城が平城に移行しています(山
城だと幕府に謀反を考えているのかと思われるということもありましたが)。

このような時代の流れに反するかのように、戦国時代も終わりに近づいていた
1582年に一大山城を築城しようとした氏照公は、八王子城を領地の支配のためだ
けなく、来る織田氏、豊臣氏との一大決戦に備えて築城したと考えても不思議で
はないと思います。

事実上野には織田氏の家臣、滝川一益が関東管領として布陣しています。
その後本能寺の変で織田家の内紛が始まり、しばらくは脅威がなくなりましたが、
秀吉公の小田原攻めでその脅威が現実のものとなります。

豊臣秀吉公による小田原攻めは天正18年(1590年)ですので、その間8年
間に渡って八王子城は着実に築城されていきます。
その規模は154万?。
その構造は3つの地区に分けられています。

1.要害地区
  お城の中心で、山の頂上に作られ、合戦の際にはここに立てこもります。本
  丸、二の丸、三の丸などの各曲輪や堀切、竪堀、石垣などの防御施設がふん
  だんにあります。

2.居館地区
  ふだん、戦のないときに城主や家臣が生活した場所です。
  広い敷地に家や庭が作られていたようで、石垣や橋も作られていました。
  発掘調査では中国の明の磁器などの茶碗が出てきたそうです。

3.根小屋地区
  城下町にあたる地区で、武将や職人、町民が生活した場所です。
  山のふもとに広がって存在しています。

以上のように広大で雄大な天下に誇れる山城を築きつつあった氏照公の八王子城
ですが、その歴史はあっけなくたった一日で幕を閉じてしまいます。

時は天正18年(1590年)、豊臣秀吉公と北条氏政公はついに雌雄を決する
事に。
史上名高い、秀吉公の小田原攻めです。

このとき、八王子城はたった一日で落城してしまいます。
攻めかかるのは前田利家公、上杉景勝公、真田昌幸公。
総勢五万とも言われていました。
迎え撃つのは、付近の農民も含めた三千。
その中で、正規の兵は800名にも満たなかったと伝えられています。

しかも、城主である氏照公は当時、北条当主5代氏直公を守るため小田原城へ主
だった家臣を連れて入城。
八王子城にはわずかな家臣と女子供しか残していない。

そのような篭城するには最悪の状況で、天正18年(1590年)、6月23日
を迎えます。

篭城戦を戦いぬくための条件として、
1.城主と城兵の心が一つになっていること(城主の力量)
2.後詰、援軍が来るのが分かっていること
3.兵糧が確保されていること
などがあげられます。

八王子城には1と2があきらかに望めない状況での合戦でした。
2に関しては攻めての武将に北条方の大道寺政繁がいたのが追撃ちをかけたよう
に思います。
松井田城の城主だった大道寺はすでに北国勢に降伏。
八王子城攻めの先鋒として参陣しておりました。
すでに北条方の劣勢を知った兵の士気の低さはせめられないと思います。
兵力さだけを見ても絶望感に打ちひしがれます。

実際、半日で落城する八王子城。
城兵の逃亡も落城を早めた原因の一つと言われています。
敵の攻撃を防ぐこともままならなかったでしょう。

城主もいない、援軍もない中での合戦は悲劇でしかなく、また、この城が北条軍
のNo2であり、豊臣家との強硬な徹底交戦論者である氏照公の居城だったこと
で、悲劇をさらに深めました。

他の城は降伏を許され、兵も殺されることはなかったのですが、この八王子城だ
け、皆殺しにあったのです。
城兵800名、御主殿にいた女子供、農民すべて見つかり次第、虐殺されました。
そのおびただしい城兵や女子供の血で川は3日間血の色をしていたと伝えられて
います。
敵兵から身を守るため多くの女性が近くの滝に身を投げたとも伝えられています。

八王子城の落城を小田原城で聞いた、氏照公は床を叩いて号泣したといわれてい
ます。

ある意味、小田原攻めのための犠牲にされた八王子城。
この城の落城が北条氏の気持ちを降伏に傾かせた一因になったのでしょう。

翌月7月5日。
八王子城落城からわずか12日後のこの日に5代北条氏直公は秀吉公に降伏の使
者を送り、ここに早雲公から続く、関東の名門北条氏の歴史も百年で幕を閉じて
しまいます。

氏照公が心血を注いで築城した八王子城。
江戸時代は幕府の直轄地になったこともあり、その遺構は良好に残り、また発掘
調査も進み、御主殿などの施設が復元されているので、遺構としての保存状態に
もすぐれています。

次回は八王子城の具体的な縄張りについてご報告したいと思います。

それでは〜

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*参考文献&HP
 「八王子城跡歴史散歩」(八王子城にある無料パンフ)
 「八王子城の歴史
  
 「【諸国旅日記】氏照の居城/滝山城
  
 「年表で見る「小田原攻め
  

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