皆さん、こんにちは。
霧隠です。
3/2に、このメルマガでもお知らせしてありました通り、某の地元のお城、唐
沢山城にて説明会を実施いたしましたので、そのご報告をさせていただきます。
その前に・・・唐沢山城。
高校卒業まで地元のいたにもかかわらず、お城というより唐沢山城神社として
の認識しかありませんでした。
お城めぐりをしてから初めてお城だという認識を持ちました。
そこで、最近は、ただお城をめぐるだけでなく、地元ということもありますが、
郷土史という観点で、お城の成立背景、城主と周囲との同盟関係、遺構につい
て、などなどお城だけでなく、郷土史の中でのお城という見方で見てみよう〜
と思っております。
なので、3年前から実施しているこの地元、安蘇史談会の会員でもあります、
大高さんとの説明会は毎回新たな発見があり、その都度、地元の郷土史の知識
が増していって某の楽しみにもなっております。
そんなささやかな楽しみに、大きな楽しみが加わりました。
それは、お城を通じての地域交流です。
今回、説明会の告知をしたところ、Lさんからお話を聞いた小笠原先生が興味
を持ってくださり、急遽ご参加。
それに伴ない、地元、安蘇史談会の方々も俄然、やる気を持ち、小笠原先生が
来られるならばと、唐沢山城で何度も発掘調査をされている茂木さんが説明し
てくださると。
お蔭で、発掘調査のお話や、細かい遺構まで詳細にご説明いただけました。
さらに、いろいろな城郭を研究されてきた小笠原先生。
遺構を見る目はすばらしく、そのお話を拝聴するだけでものすごい刺激になり
ました。
具体的な遺構の話しは後ほどするとして、専門家の方々によるお城の見方を目
の当たりにして、改めてお城めぐりって奥が深い! と改めて実感いたしまし
た。
さてさて、前置きが非常に長くなってしまいましたが、遺構の説明の前に唐沢
山城の歴史について、年表を使ってご説明させていただきます。
唐沢山城の歴史。
唐沢山城の城主は、代々佐野氏です。
この佐野氏は、平将門を討ち取った藤原秀郷の子孫を自称しています。
そのまま戦国時代を迎えますが、その35年間に6人も城主をかえていきます。
1.佐野昌綱(佐野氏)
2.佐野宗綱(佐野氏)
3.色部勝長(上杉家家臣)
4.佐野氏忠(北条氏康6男)
5.佐野天徳寺(佐野昌綱弟・佐野氏)
6.佐野信吉(豊臣氏家臣、富田知信次男)
という感じです。
実際の年表を佐野家、上杉家、北条家のからみでまとめると・・・
1553年8月 上杉謙信を唐沢山城に3日間滞在(佐野市史)
1559年1月 北条氏康、唐沢山城を攻める(佐野市史)
2月 謙信、北条氏康の軍勢に包囲された昌綱の軍を助けるために
唐沢山城に入城(佐野市史)
1561年12月 上杉謙信、唐沢山城を攻め落とし、本庄繁長を城代に(佐野
市史)
*この年3月11日、謙信、小田原攻め
1562年2月 上杉謙信、唐沢山城を攻める(新潟県史)
1563年2月 上杉謙信、唐沢山城を攻める(新潟県史)
12月 上杉謙信、唐沢山城を攻める(新潟県史)
1564年2月 上杉謙信、唐沢山城を攻める。降伏(佐野市史)
4月 北条氏康、唐沢山城を攻める(佐野市史)
11月 上杉謙信、唐沢山城を攻める。落城(佐野市史)
1565年11月 上杉謙信、唐沢山城を普請(新潟県史)
1566年11月 上杉謙信、唐沢山城に入城(新潟県史)
1567年5月 上杉一族の虎房丸を養子として申し受ける(新潟県史)
6月 北条氏康・氏政父子、唐沢山城を攻撃。7月撤退(佐野市史)
10月 北条氏政、唐沢山城を落とす(佐野市史)
10月 謙信、氏政を攻め、唐沢山城を奪い返す(佐野市史)
11月 養子の虎房丸、城代の色部氏を伴なって越後に帰還(新潟県史)
1569年3月 謙信、氏康と相越同盟を了承。6月同盟成立(新潟県史)
1570年1月 謙信、唐沢山城に陣を進め、1ヶ月半滞陣(田沼町史)
1572年1月 氏康、謙信との同盟を破棄し、武田信玄と結ぶ(新潟県史)
1574年11月 上杉謙信、唐沢山城を攻める(佐野市史)
1576年4月 上杉謙信、唐沢山城を攻める(佐野市史)
6月 佐野宗綱、織田信長の推挙により但馬守となる(佐野市史)
8月 上杉謙信1万5千の兵で、唐沢山城を攻める(佐野市史)
11月 佐野宗綱、北条氏政の援軍を得て、上杉方の唐沢山城の
城代、本庄繁長を越後に追う(佐野市史)
1577年1月 上杉謙信、唐沢山城を攻撃(佐野市史)
5月 北条氏政、唐沢山城を攻撃(佐野市史)
7月 北条氏政、攻略失敗、小田原に戻る(佐野市史)
1578年3月 上杉謙信、死去
1581年8月 北条氏邦、唐沢山城を攻撃するも佐竹義重が援軍派遣し撃退
(佐野市史)
1582年6月 本能寺の変。佐野宗綱は滝川一益軍として、北条氏邦と戦う
(佐野市史)
1583年2月 北条氏直、下野に出陣、佐野宗綱、佐竹義重とともに対峙
(佐野市史)
1584年7月 北条氏直8万の兵で佐野領に着陣。佐竹義重2万と対峙するも
両者和議を結ぶ(佐野市史)
1585年1月 佐野宗綱、26歳で討ち死に。それを受け、北条氏照、氏邦、佐
野に出陣し、周囲を征圧し、氏康6男、氏忠、唐沢山城に入る
(佐野市史)
1586年11月 北条氏政、氏忠を佐野家の後嗣として、佐野姓を名乗らせる
(佐野市史)
1588年12月 北条氏忠、唐沢山城根小屋の堀普請を命じる
1590年1月 北条氏、関八州の将士を招集。唐沢山城からも氏忠をはじめ小
田原へむかう(田沼町史)
3月 佐野天徳寺、豊臣秀吉より小田原攻めに際に案内役を命じられ
る(佐野市史)
7月 北条氏、秀吉に降伏
8月 佐野天徳寺、唐沢山城に帰城(佐野市史)
1592年9月 佐野天徳寺、豊臣家臣、富田知信次男、信吉に家督を譲り隠居
(佐野市史)
1593年2月 佐野信吉、唐沢山城に入部する。信吉、佐野宗綱の娘をめとる
(佐野市史)
1600年5月 佐野信吉、徳川家康より陣所になる小山城の普請を命じられる
(田沼町史)
9月 関ヶ原の合戦
1602年2月 佐野信吉、春日岡(現佐野城跡)に築城(佐野市史)
(注)佐野市史は地元の伝承もそのまま載せているようなので、あまり歴史
的価値はないかもしれません。
前半は上杉謙信の関東征伐に伴なう影響で、謙信が来ると降伏し、謙信が越後
に帰ると、また独立する・・・ということの繰り返しの結果、このように何度
も攻められる・・・ということになったのだと思います。
前半の上杉謙信の怒涛の攻撃は、謙信亡き後、その主人公を北条氏に代えます。
この時期になると、上杉氏は関東への侵入をやめ、変わりに茨城県の佐竹氏が
佐野氏側になります。
さらに、前半の1576年に佐野氏が織田信長より但馬守の推挙を受けているこ
とからわかりますが、織田氏が滝川一益を関東管領として上野(群馬県)に進
出してくると、佐野氏も織田氏の軍門にくだり、北条氏と戦います。
上杉氏、北条氏、そして、佐竹氏、織田氏の援助のもとに、何度も主を変えた
佐野氏。
最終的には北条氏の軍門にくだった際には、氏康の子息を養子に迎え、最後は
小田原の水之尾口に布陣し、豊臣方の宇喜多氏と戦います。
そして、北条氏降伏後は、豊臣氏の家臣、富田氏が佐野氏を継ぎます。
この富田氏も江戸時代になると、豊臣系ということで、一旦改易になり、
佐野氏は滅びますが、その後旗本として許されます。
栃木県の南に位置し、上杉軍が関東に来る際には必ず攻撃され、北条氏の北進
の影響で何度も攻められる佐野氏。
実は、年表には書きませんでしたが、上杉、北条クラスの大大名の攻撃には
降伏することが多かったのですが、実際には地元の豪族との戦いを何度も繰り
返しています。
最大のライバルが、太田金山城の長尾氏。
ただ、このお話しはめっちゃローカルな話しになりますので、今回は割愛しま
す。
それにしても、地元のお城なのに何にも知らない自分を恥ずかしく思いました。
こうして、年表をただ書き写すだけでも、唐沢山城の争奪をめぐって、関東の
歴史の流れを見ることができておもしろかったです。
・・・翻弄されている気もしますが。
次回は、説明会で聞いたお話をもとに、具体的な遺構のご紹介をしていきたい
と思います。
それでは〜