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 戦国の風雲児〜織田信長一代記〜 第7号 2003年10月23日発行
 「第7話 家臣の寝返り」
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 「お館様! 鳴海城主、山口左馬介が今川方に寝返りました!」

 「何だと! 奴は親父が目をかけてきた者ではないかっ!」

 「山口は今川勢とともに、尾張領内に侵攻して参りました!」

 「すぐに出陣だ! 裏切り者に目にものを見せてくれる」

 時は、天文二十二年(1553)年、四月十七日。
 織田上総介信長が19歳のときのことである。

 信長はすぐに800の軍勢を引き連れて、鳴海に向かい、三の山へ登った。

 敵の山口左馬介の息子、九郎次郎は20歳。
 1500ほどの軍勢を従え、赤塚という場所に布陣した。

 それを見た信長もすぐさま赤塚へ向かう。

 敵との距離が五、六間になったとき…

 「弓隊、放てっ!」

 両軍から弓が放たれた!

 ピュンピュン

 ピューー

 グサッ!

 「あ、荒川殿!」

 見ると、先陣の足軽衆の一人、荒川与十郎がかぶとのひさしを深々と射られて
 落馬してしまった!

 名のある武士が落馬したのを見た敵兵は、荒川のすねをつかんでひっぱってい
 こうとした。
 中には、のし付の太刀の柄を持って引っ張っていこうとする者もいた。

 「荒川殿を敵の手に渡すなっ!」

 敵兵とは逆に頭と胴を持って引っ張り合う。

 「ものども、もっと力をこめるのだ!」

 なんとかして、与十郎ののし付の太刀、頭、胴体は無事だった。

 ……………………………

 「かかれぇ!」

 「一旦、引け、引けー」

 「もう一度打ちかかるのだぁ!」

 合戦は午前十時ごろから正午ごろまで敵、味方入り乱れ、たたき合っては退き、
 負けじ劣らじとかかってはたたき合うというありさまだった。
 あまりにも敵、味方が近すぎたので、首は互いに取ることができず、打ち捨て
 られたままだった。

 信長方の討ち死には30騎に及んだ。
 敵方の荒川又蔵はこちらに生け捕り、味方の赤川平七は敵方に生け捕られてし
 まった。

 入り乱れて火花を散らして戦い、双方四、五間を隔てて軍陣を張った。
 敵も味方も見知った間柄だったので、少しも油断はなかった。

 馬から下りての戦いだったので、馬はみな敵陣へ走っていってしまった。
 しかし、戦いが終わってから、互いに間違いなく返しあった。
 生け捕られた兵も交換し合った。
 そして、その日のうちに信長は帰陣した。

 <参考文献>
 ニュートンプレス:信長公記(太田牛一:原著 榊原潤:訳)
 角川ソフィア文庫:信長公記(奥野高広、岩沢愿彦 校注)

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 【キリのコメント7】 

 *このページは信長公記との違いや、さらに詳細な説明が書かれています。
  お時間に余裕がございましたら、ご覧ください。

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 【宣教師から見た信長その4】

 「彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることを丹念に仕上げ、
  対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤の家来と
  も親しく話をした」

 参考文献:「完訳フロイス日本史2 ルイス・フロイス 松田毅一・川崎桃太訳」 
      中公文庫

 +++++++++++++(編集後記)++++++++++++++++
 皆さん、こんにちは。
 キリです。

 父の葬儀後、織田家の跡を継いだ信長は、以後、数年間身内との戦いに明け暮
 れることになります。

 いくさに次ぐいくさ。
 尾張の兵は弱い…なんて思えないぐらい、戦ってばかりです。

 しかも、特筆すべきは、若き日の信長像です。
 彼は常に最前線に出て、指揮を取っています。
 
 その姿は勇ましくもあり、猛々しくもあります。
 しかし、ただ無鉄砲に戦いに赴くのではなく、常に冷静に戦況を判断し、的確
 な判断を下し、そして、行動は迅速果敢。

 とても19歳とは思えない、冷静沈着な名将ぶりです。

 信長というと気が短いとか、怒りっぽいというイメージがありますが、信長公
 記に描かれた信長は、合理的でかつ精力的な人物としていきいきと描かれてい
 ます。

 その信長公記の躍動感あふれる信長公を上手に描けるようにがんばりたいと思
 います。

 それでは〜

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