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戦国の風雲児〜織田信長一代記〜 第9号 2003年11月6日発行
「第9話 尾張守護、自害」
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「梁田殿、梁田殿、御身にとっていい話があるのだが…」
「どうしたというのだ、那古屋殿、小声で」
「そなたはこの国の守護、斯波様にお仕えする身。今のまま、守護代ごときに
この城を支配されていてよろしいのか?」
「ふぅ、そうはいっても武衛様には以前のような力はない…」
「そこでだ、この清洲に不和を起こさせ、上総介殿に味方されたらどうだろ
う?」
「……」
「決して悪いようにせぬ。わしからも上総介殿には話をつけておく。うまくい
けばそなたの知行も今よりは…」
同じような話を武衛の家臣たちにも話したところ、欲にくらんだ者たちは皆、
賛成し、代表して梁田が信長のもとを訪れ、忠誠を誓った。
信長の満足ひとかたではなかった。
「頃はよし、今こそ清洲を乗っ取るぞ!」
そういって清洲に進軍した信長は、城下を焼き払い、清洲城をはだか城にして
しまった。
「梁田は何をしておるのか」
そのころ、清洲城では、武衛の家臣たちが信長と頻繁に会っているという報告
をするものがおり、武衛にこの城をのっとられるのではないかという疑心暗鬼
に陥った。
「ここは外の敵よりも城中こそ注意しなければならない」
と今まで以上に用心するようになり、なかなか城は落ちずに、信長も苦慮した。
……………………………
そのまま月日は流れ、翌、天文23年(1554)7月12日のこと。
坂井大膳、川尻秀隆、織田三位らが清洲城で謀議を重ねていた。
「若武衛様はでかけられたか」
「はい、屈強な若者全員が供をして川狩りに行かれたご様子」
「それで今この城内にいるのは誰だ」
「武衛様とわずかな老人と家来のみです」
「よし…」
武衛の身辺が手薄になったこのときを狙って、どっと四方から御殿を囲んだ。
「武衛様、坂井らが御殿に押し寄せて参りました!」
「うぬ、家臣のくせに何たる醜態! このままおめおめとやられてなるものか
っ」
「ははっ! 我ら一同お供仕ります!」
表広間の入り口では何阿弥という者が切って出て一騎当千の働きをした。
窓を守る森兄弟も多数の者を傷つけたが討ち死に。
裏口は柘植宗花が守り、比類なき活躍をした。
「最早、これまで、屋敷に火を放つのだ。わしの首を憎っくき大膳ごときに渡
してはならぬ!」
「…かしこまりました」
「但し、侍女たちは一刻も早く逃げ延びるのだ」
パチパチパチ…
ゴォォォォ…
こうして尾張守護、斯波義統とその一門数十名は切腹して果てた。
侍女たちは堀に飛び込み、無事渡り越えて助かるものもあったが、そのまま水
におぼれて死ぬものもあり、あわれな有様だった。
「何、父上が殺された…」
川狩りの最中から父が坂井らに殺されたことを知った若武衛は、浴衣姿でその
まま信長を頼った。
そして、200人扶持を与えられ、天王坊に住まわせた。
もう一人の若君も無事、保護され信長のもとに送られてきた。
…………………………
尾張守護、武衛が殺されて一週間がたった7月18日。
「頼んだぞ、権六」
「わしにお任せあれ!」
清洲の城内が混乱しているこのチャンスに清洲城を乗っ取ろうと、信長は柴田
勝家に命じて、清洲を攻め立てた。
清洲勢も応戦し、三王口で激突したが、清洲勢は支えることができず、後退に
次ぐ後退で、ついには町口の大堀の中まで追い込まれてしまった。
「最早我らの運は尽き申した。ここを死に場所と思い、最後の一いくさをしよ
うではないか!」
「おぉ!」
最後の抵抗をする清洲勢。
しかし、信長方の槍は長く、清洲勢の槍は短く、しだいに突き立てられていっ
てしまった。
それでも、一歩も退かずに奮戦し、川尻左馬丞、織田三位ら30騎が討ち死に
した。
その中で、坂井大膳だけが生き残って清洲城に撤退した。
<参考文献>
ニュートンプレス:信長公記(太田牛一:原著 榊原潤:訳)
角川ソフィア文庫:信長公記(奥野高広、岩沢愿彦 校注)
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*このページは信長公記との違いや、さらに詳細な説明が書かれています。
お時間に余裕がございましたら、ご覧ください。
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【宣教師から見た信長その6】
P114
「かつて信長は、数名の召使の女たちに対してひどい癇癪を起こし、厳罰に処
した。そのうちの一人か二人は処罰された後に、ある山の真ん中にある寺に
逃れた。そのことが信長の耳に入ると、その寺の全僧侶を捕縛させ、その同
じ夜、彼らの僧院、およびその他、近隣に住んでいる人たちの家屋にも放火
させ、翌日には一人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はお
びただしかった」
参考文献:「完訳フロイス日本史2 ルイス・フロイス 松田毅一・川崎桃太訳」
中公文庫
+++++++++++++(編集後記)++++++++++++++++
皆さん、こんにちは。
キリです。
読者の方から、おもしろいお話を教えていただいたので、ご紹介いたします。
それは、信長と雅楽の関係です。
その方が見に行った雅楽での説明で、
「在りし日の信長は色々な芸事に深い関心を寄せていたらしく、雅楽(舞楽)に
対してもかなりの金銭的援助をしていたそうです。その繋がりから、衣装に
『五ツ木瓜』があしらわれるようになった」
とあり、なんと、雅楽の衣装に織田家の五ツ木瓜が使われているようです。
知りませんでした。
そう思うと信長はいろいろな趣味といいますか、芸事をたしなんでいますね。
相撲、能楽、雅楽、茶の湯、鷹狩りなどなど。
いくさばかりでなく、芸術や芸能にも広い教養のあった信長公。
文武両道だったのでしょうね。