皆さん、こんにちは。
霧隠です。
今回は、利神城の説明の前に、ふもとにあります魅力あふれる
宿場町「平福」についてご報告したいと思います。
前回ご紹介した「平福郷土資料館」のお母さんから詳しい話を
30分以上に渡ってお聞きすることができました。
平福に対する深い愛情を感じることができる貴重なお話。
こうして地元の方のお話を聞く事ができるのもお城めぐりの醍
醐味です(^^)
その中で興味深い話は・・・
曰く:平福には「お菊虫」という虫がいるらしい。
毎夜毎夜、羽音が「いちま〜い、にま〜い」と聞こえる
らしい・・・かどうかは分かりませんが。
姫路城の「播州皿屋敷」との関連性はあるやなしや?
また、現在城域崩壊中の利神城。
但馬竹田城に負けられねーという話があったかなかったか、地
元の方でも整備をしよう! という話もあり、ふるさと再生資
金の一億円を使用しようとしたのですが、結局は展望台を!
という声におされ、現在佐用町は「星の町」となってます。
そんでもって利神城は荒れ放題・・・あぁ。
お隣の美作国(岡山)大原町の駅名はなんと「宮本武蔵」。
こちらは武蔵が幼少期を過ごした場所。さらに、初決闘の地だぁ、
ということで、駅名の公募の際には、武蔵にあやかって町おこし
を! といふ声も(一部で)あったようですが、結局皆さん恥ず
かしがって無難な「平福」の駅になったらしい。
また、平福の町はホタルでも有名だったそうですが、美観のため
に山の木を切ってから、ホタルの数がめっきり減ったそうな。
道の駅ができてから車での観光客が増えたようです。
でも、この道の駅ができる際には、地元の方々は戦々恐々として
いたらしい。
というのは、道の駅を作る際に株券を購入させら・・・もとい、
出資したのはいいが、もし赤字になったら増資というなの増税
かもと(本当に)おっかなびっくりだったようでしたが、ふたを
あけてみたら、黒字でお食事券とか送られてくるらしい。
などなど地元の活性化などの話を伺うことができました。
最後に利神城も航空写真をとるために村の人が借り出されほんと
めい・・・もとい、大変だったとのこと。
・・・ありがとうございますm(_)m
それ以外にも土蔵の話、しょうゆの話、ロケの話など楽しい話を
30分以上に渡って聞く事ができました。
最後に武蔵のエピソードをご紹介したいと思います。
この宮本武蔵の話だけでも1話分かけるほどのおもしろさ。
来年の大河ドラマの主人公でもある、宮本武蔵。
この平福の町は残念ながらロケ地に選ばれなかったようですが、
胸を張って誇れることが2つあります。
それは、宮本武蔵ファンなら誰もが知っている武蔵の鮮烈なデ
ビュー戦です。
そのとき武蔵13歳。
そう、武蔵自身の書物、五輪書の序文にも書かれているこの初
決闘の場所がこの平福だったのです。
いま巷では、宮本武蔵生誕の地論争が華やかに繰り広げられて
いますが、どっこいこの平福も負けていません。
というよりお母さんの話が本当ならばこの平福こと宮本武蔵に
とっては重要な地になると思います。
それは、この平福の地で「武蔵」は少年期を過ごしたのではと
いう話です。
初耳の話でしたが、それはどういうことかと申しますと、武蔵
の父、新免無二斎が天正12年(1584年)後妻を迎えます。
この後妻というのが、利神城城主別所林治の娘よし子と申し、
武蔵はこの義母に育てられるのです。
宮本武蔵というとどうしても父無二斎のことばかり前面に出て
きますが、ちゃんと(継母ですが)お母さんがいたのです。
武蔵7歳のときに、無二斎は死去し、よし子は平福に戻り、田
住政久の後妻になります。
武蔵はこの義母を頼って平福に来た武蔵は正蓮庵の道林坊のもと
で武芸を学んだそうです。
つまり、継母のもとで少年期をこの平福で過ごし、そのまま有馬
喜兵衛の立看板を見て、一刀のもとに切り捨てるデビューをこの
地で迎えることになります。
城主の娘だったよし子を義母にもつので、もしかしたら武蔵もこ
の利神城に登ったのかもとか、佐用川で川遊びをしたかも〜とか
武蔵の面影を追って楽しむこともできます。
少年期を継母に育てられたといえば、思い浮かぶのが西国の覇者
毛利元就公。
こちらは、両親が亡くなった後、継母に育てられます。
元就公はこの「大方殿」と呼ばれた女性を生涯敬愛し続けます。
対する武蔵は、その書物五輪書にはこの継母のことは触れており
ません。
ので、某も知らなかったのですが、彼女と武蔵の関係はどのよう
なものだったのでしょうか。
武蔵からこの継母への手紙など残っていたら、また違った武蔵
像が生まれるのでしょうけども。
ここまででけっこー長くなりましたが、最後にパンフレットから
利神城の説明を要約して終えたいと思います。
平福の概要(郷土資料館の資料より)
白旗城で有名な赤松円心則村が、白旗城北方の護りを固めるた
め、別所五郎左衛門敦範を佐用郡に派遣。彼が利神山に城を築
くのが最適と築城。
以来約220年にわたり佐用郡を支配していましたが、天正6年
山中鹿介に攻められ落城。
以後、約20年間岡山藩宇喜多氏の家老、服部勘助が佐用郡、
赤穂郡を支配しました。
その後、慶長五年(1600年)姫路藩主池田輝政公領になり、家
老池田出羽守由之が佐用郡に入り、利神城と平城(城主常御殿)
を築城し、城下町を形成します。
利神城は標高373mの利神山山頂に築いた山城で、総延長450m
に及ぶ石垣、三層の天守閣と城郭群をめぐらせた“華麗”な城
だったと伝わっているそうです。
このとき、佐用川を外堀に、西山山麓の因幡街道も町中へ移し、
町の繁栄と城の安泰を図りました。
つまり、現在の平福をつくったのは、この池田氏になります。
しかし、池田氏支配はわずか40年で終わり、その後は江戸幕府
詰めで代官支配になり、町も宿場町になり現在にいたっていま
す。
代官として赴任した旗本松平氏は明治維新まで続き、江戸幕府
の要職を務めたそうです。
ちなみに、町には“陣屋”がありますが、陣屋とは、1万石に
満たない小藩の城のことを呼ぶそうです。
次回は実際に利神城を登城したときのことをご報告したいと思
います。
あぁ、感動の利神城。
まさに天空のお城の名がふさわしいお城でした。
それでは〜