皆さん、こんにちは。
霧隠です。
設楽が原に行ってきましたので、ご報告したいと思います。
設楽が原は12月にも行ったのですが、そのときには長篠城に時間をかけすぎ
て、設楽が原には2時間もいれなかったので、全然消化不良でした。
今回は、朝の9時から夕方5時までの8時間、たっぷり設楽が原を楽しむこと
ができました。
今回は、設楽が原で亡くなった武田家の家臣達のお墓めぐりと織田信長公の布
陣した茶臼山に行きたかったのですが、念願がかないました。
今回訪れた武田家の家臣達のお墓めぐりは・・・
岡部竹雲斎、岩手左馬之助、山縣三郎兵衛昌景、山縣甚太郎昌次、名取又左エ
門道忠、高坂又八郎助宣、原隼人佐昌胤、土屋右エ門尉昌次、温井左近昌国、
内藤修理亮昌豊、横田備中守綱松、五味与三兵衛貞氏、真田源太左エ門尉信綱、
真田兵部丞昌輝、禰津甚平是広、鎌原筑前守之綱、常田図書春清、甘利郷佐衛
門信康の全18名。
残念ながら馬場美濃守信房のお墓はちょっと遠いので、行けませんでした。
いずれも武田家を支えた歴戦の勇士たち。
武田ファンならなぜ彼らがこの地でかくも大勢死なねばならなかったのか疑問
に思うでしょう。
涙なくしてはたずねることができない、この武田家の忠臣達のお墓めぐり。
特に武田四名臣と呼ばれる、内藤昌豊、馬場信房、山縣昌景を1度に失ってし
まうことは、どれほど武田家にとっての損失か。
それに引替え、織田、徳川連合軍で1000名以上の兵の指揮官が戦死すること
はありませんでした。
資料館には武田、織田、徳川の全指揮官の戦死者、負傷者のリストがこっそり
と展示されていますが(お手洗いの途中の通路の壁にはってあります)、これに
よると、織田家に指揮官で負傷したのは、前田又左衛門利家とその家臣、村井
又兵衛の二人くらい(ということは、大河ドラマで利家と又兵衛がよく前線で
立ちまわりをしたのは案外うそではないかも〜)。
徳川軍も負傷したのは本多作左重次くらいです。
(下士官クラスは少数戦死しているようです)
つまり、武田15000 VS 織田、徳川連合軍38000
の戦いは、指揮官クラスだけを見ると完全に武田軍の大敗と言っても過言でも
ありません。
武田側の死傷者は1万人に達したといいます。
一方の徳川軍も死傷者は6000人になったとも言われています。
しかし、指揮官クラスの死傷者の差があまりにも違いすぎます。
では、なぜこのようなことになってしまったのか。
設楽原の合戦はどのように始まり、どのように終わったのか。
そして、なぜ武田はこのような大敗を喫してしまったのか。
そのようなことを考えながら設楽が原を歩き回りました。
設楽原は訪れるとびっくりすると思いますが、あれだけの軍隊が対峙したには
非常に狭い空間です。
2つの小高い丘が両側にあり、その間に小川が流れている。
そして、戦いが行われたこの2つの丘の距離はわずか200m。
さらに、この2つの丘の長さも2キロしかない。
そのような狭い空間に武田軍15000と織田、徳川連合軍38000がひしめきあい、
たった一日の合戦で勝負がついてしまう。
地図にして書くとこんな感じです。

非常にええかげんです。
*1は大宮前激戦地
*2は柳田前激戦地
*3は竹広激戦地
*4は勝楽寺前激戦地
です。
地名は、馬場の布陣した場所を「丸山」といい、内藤の布陣した場所を「天王
山」といい、武田勝頼が布陣した場所を「才ノ神」といい、山縣昌景が布陣し
た場所は「勝楽寺」といいます。
あと、徳川家康の陣地を「乗久根」といい、本多忠勝や織田家臣団のいた山を
「弾上山」といいます。
山といっても、比高はそれぞれ20mもないような感じです。
さて、三河東郷駅から武田の家臣のお墓めぐりを始めます。
北にてくてく。
まずは、血洗い池にむかいます。
そこから東に少し行くと、左側(北側)に上の田んぼに登る道があります。
そこを登ると2つのお墓が。
それは、岡部竹雲斎と岩手左馬之助のお墓です。
さて、彼らは一体どんな人物は・・・勉強不足の某は全然分からず。
とりあえず、手を合わせました。
そのまま北に向かいます。
「←左 山縣昌景のお墓」
さっそく左に向かうと、ありました。
森の中にひっそりと山縣三郎兵衛昌景、山縣甚太郎昌次、名取又左エ門道忠、
高坂又八郎助宣のお墓がありました。
ちゃんとお花が供えられておりました。
しかも、どうやら山縣三郎兵衛昌景にはご子孫がいらっしゃるようで、その方
がこの碑を建てたようです。
名字は当然、「山縣」でした。
この山縣甚太郎昌次は昌景の息子らしいです。
昌景、享年53才。
昌次、享年27才。
・・・だったと思います。
この高坂又八郎助宣は例の高坂弾正昌信と何らかの関係があるのでしょうか。
次にそのまま北に向かうと原昌胤のお墓があります。
新城市設楽原歴史資料館のすぐそばにあります。
思わず気づかないところにぽつんとあります。
なんだか一人ぼっちで寂しそう。
そのままさらに北上すると、天王山に・・・すぐには行けませんでした。
資料館でちゃんと500円を払って地図を買えばよかったのでしょうが、何にも
持たずに勘だけで歩くので、ちょっと迷子に。
でも、途中に「→土屋右エ門尉昌次、温井左近昌国」のお墓の看板が。
こちらは立派な石碑が建っております。
土屋昌次といえば、馬防柵の奥まで攻め入り、馬防柵に取り付いて絶叫して死
んだ猛将です。
彼にはここの他にしっかり、織田方の馬防柵の場所にもお墓があります。
土屋昌次のお墓の後で、「→武田勝頼本陣500m」というちっちゃな看板があり
ます。
でもその前に、天王山の内藤陣に行きたいよぉと思いながらも、てきとーに勘
で探しつづけました。
なんとなく、西に向かい、斜面があったのでちょっと登ったところ、平地にで
ました。
ちょっと辺りをうろうろしたら、ありました。
内藤修理亮昌豊、横田備中守綱松のお墓、
内藤昌豊のお墓はなかなか立派ですが、横田綱松のお墓はちょっとちっちゃい
です。
ところで、この内藤のお墓はほにゃらか幼稚園の裏手のでっかい石碑のそのま
た裏手にこっそりあります。
幼稚園のそばにはちゃんと看板もありました。
でも、ちょっとわかりにくいかも。
いよいよ武田勝頼が布陣した才ノ神を探します。
・・・これがなかなか分かりにくかったです。
看板通りにまっすぐ進んだのですが、全然それらしい看板がありません。
500mとなると、この辺かなぁと思い、おもむろに山に向かう道を登ることに。
少し登り右側になんとなく向かうと「→武田勝頼本陣」という看板が。
なんとなくでもちゃんとつくもんだなぁと思いながらも本陣到着。
ここは20m四方の広さがあります。
下にも曲輪っぽいのはあります。
当然目の前の木々は切り払われていたのでしょうか。
でないと、前線が見渡せません。
彼はどのような思いでこの地に布陣し、どのような思いで戦線を離れたのでし
ょう。
そのままさらに北進します。
途中ヤブがありますが、気にしないで前に進むと道路にぶつかります。
その途中に、こっそり五味与三兵衛貞氏のお墓がひっそりあります。
さて、彼はどのような人物なのでしょう・・・(勉強不足で分かりません)。
さらに北進すると平野にでます。
さらに進むと、看板発見。
「↑真田源太左エ門尉信綱の墓」
おぉ、勇名高き真田兄弟のお墓でないかっ!
前回は時間がなくて来れなかった真田兄弟のお墓に(偶然)たどりつきました。
感慨もひとしおです。
ここには、真田源太左エ門尉信綱、真田兵部丞昌輝、禰津甚平是広、鎌原筑前
守之綱、常田図書春清と真田一族のお墓があったと、1578〜1653年に生きて
いた子藷山が著した「戦場考」に書かれています。
他の武田家臣のお墓はほとんど彼のこの著作を参考に再現したようです。
彼は、設楽原の合戦後に訪ねたのでしょう。
合戦後、地元の人々が建てたお墓の位置を記しているようです。
さて、念願の真田兄弟のお墓をお参りした後は、武田軍最北戦線を担当した馬
場信房の陣地、丸山を探します。
ところが、これがなかなか見つからず難渋しました。
笑い話ですが、磁石も地図も見ないで気ままに歩いていたら、同じ場所をぐる
ぐるまわっていたようです(−−)
やっぱり、地図は大事です。
30分以上無駄な時間を過ごしながらもようやく丸山に到着。
この丸山は本当にちっちゃな丘です。
丘の頂上部は10m平方mもないくらいの狭さ。
高さも10mもないくらいです。
最初、この丸山は織田方の佐久間信盛が守っていたのですが、それを馬場信房
が奪ったそうです。
当然、目の前の丘に織田軍が布陣していたのですが、その距離をちょっと歩測
しました。
大体130歩。
某の1歩が大体80cmくらいなので、武田軍との最北端は100mくらいしかな
いことにまります。
ここは、大宮前激戦地と呼ばれる場所で、馬場軍、真田軍が織田軍に向かって
いった場所です。
この大宮前激戦地には、矢立硯が発見されたそうです。
この矢立硯の産地は上州(群馬県)の沼田の特有の産物だそうです。
ということは、上州沼田が出身地の真田兄弟の兵がこの硯を持っていたとして
も不思議ではありません。
この地で真田の兵が戦った動かぬ証拠にもなるのでしょう。
さて、ちょっと長くなったので、一旦終えます。
次回は、織田、徳川の陣地と織田信長の布陣した茶臼山についてご報告いたし
ます。
それでは〜
追申:今回はじめてデジカメを購入し撮影した写真です。
名づけて「設楽原で討ち死にした武将達」です。
…最初の写真がお墓ばっかりというのもちょっと…