皆さん、こんにちは。
霧隠です。
岡山県児島半島にある常山城。
ここはお城から海が見えるという単純な理由で訪ねましたが、すんごいお城でし
た!
瀬戸内海どころか四国まで見渡せる景色
270度の平野が見渡せる抜群の風景
毛利氏、宇喜多氏、三村氏の血みどろの合戦絵巻
女軍全滅の悲劇
などなどただ海が見えるだけではく、歴史的背景や実戦に使用された見事な山城
だということもまざまざと見せつけられました。
備前(岡山県)に常山城あり。
今回の訪城でその思いが深く胸に刻まれました。
さて、常山城。
場所は児島半島北岸中ほど玉野市藤木と児島郡灘崎町迫川にまたがる常山山頂に
築かれた連郭式山城です。
地図でいうとここになります。
このような山です。
(写真はご一緒した美作さんの撮影です)
標高307m
比高305m
周囲から一際目立つ山です。
まるで富士山のように。
そう、この常山は地元児島では、「児島富士」と呼ばれている山で、その高さは他
を圧倒しています。
手前に見えている山が小早川隆景軍が布陣した麦飯山(むぎいやま)です。
青空に山の緑が映えています。
ぶらーぼ!
登る前からわくわくしてきます。
常山城を攻略する前に、歴史背景のお勉強。
ちょっと常山城を語る前に重要な関連のある、備中兵乱に関するお話し。
備中兵乱とは、涙泣くしては語れないお話しです。
登場人物は毛利輝元公、三村元親公、宇喜多直家公の3人。
位置関係を見ると、毛利氏(安芸・広島)、三村氏(備中・岡山)・宇喜多氏(備
前・岡山)の三地域。
これに畿内を統一し、いよいよ中国地方に進出しようとしていた織田信長公もか
かわってきます。
安芸の毛利氏は、元就公のときに中国地方の覇者になります。
三村氏はその毛利氏の庇護の元、備中の国をおさめます。
その三村氏は元親公の父、家親公が宇喜多直家公によって美作の興禅寺にて暗殺
されてしまいます(だまし討ちとも言われています)。
当然、三村氏は宇喜多氏に対して恨み骨髄に達しています。
当主の元親公はまだ齢21歳。
血気盛んな年頃。
そんな中、恭順を誓っていた毛利氏がにっくき宇喜多氏と同盟を結びます。
その同盟を阻止できなかった三村氏はその怒りの鉾先を毛利氏に向けてしまいま
す。
そんな中、中国地方制覇に向かっていた秀吉公が三村氏に調略の手を伸ばします。
一緒に手を結び宇喜多氏を挟み撃ちにしようと・・・
その申し出に対して、三村一族は大激論を交わします。
織田氏について宿敵宇喜多氏を滅ぼすか、大恩ある毛利氏にこれからも臣従して
いくか。
織田氏と手を結べば宇喜多氏と同盟関係を結んでいる毛利氏が黙っていません。
それを承知で元親公は毛利氏と手を切ることを決意します。
毛利氏と手を切ることを強行に反対する一族の三村親成はこの段階で小早川隆景
軍に投降し、三村一族の毛利氏への叛旗を訴えます。
こうして三村一族は完全に敵味方に分かれてしまいます。
一族の三村親成の道案内で毛利軍は総力で三村氏掃討を開始します。
天正2年(1574年)11月10日毛利軍は備中に侵入します。
その後、三村軍は撤退につぐ、撤退。
あっという間に、居城備中松山城まで追い詰められてしまいます。
翌天正3年3月1日には備中松山城は毛利氏の総攻撃を受けてしまいます。
篭城すること2ヶ月半。
5月20日には天神丸が破られ、元親公は夜陰にまぎれて妻子一門と松山城を落
ち延びるも、6月2日捕らえられ自刃していまします。
享年22才。
<辞世の句>
「人という 名をかる程や 末の露 消えてぞ帰る 本の雫に」
そのとき息子の勝法師丸も捕らえられ、井山宝福寺で斬首されました。
彼の賢さを恐れた隆景公の命だったともいい伝わっております。
享年8才。
<辞世の句>
「夢の世に 幻の身の 生まれ来て 露に宿かる 宵の稲妻」
勝法師丸の墓は今も宝福寺の敷地内にひっそりと残っております。
ひっそりと・・・
(と思っていたら、現在は父、元親公のお墓(高梁市の頼久寺)の隣に移設され
ているようです)
三村氏の居城、備中松山城が落城し、三村氏に味方する城は上野隆徳がこもる常
山城だけになってしまいました。
では、なぜ、常山城城主の上野氏は、主君三村氏が滅んだ後も抵抗を続けたのか?
そのときの合戦で起きた女軍の悲劇とは一体何なのか?
次回、備中兵乱<後編>、女軍の悲劇をご報告いたします。
それでは〜