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カンボジアの歴史 |
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![]() ■カンボジア王朝の歴史 ![]() アンコールワットの第一回廊の壁面レリーフの中にスーリヤバルマン王の坐像があります。熱帯地方の王らしく着衣はほとんどなく、首や肩から金や宝石で造られた装飾を着け、大きな刀を腰に差して座っています。インドシナ半島の中央部にあったアンコールの都はさぞかし豊かな都だったのだろうと想像できます。この王が生きていた当時は、このあたりはどんな風景だったのだろうか、…想像が広がります。王の軍団は強力で、別の場所の壁面レリーフによると、象の軍団が力強く敵にたちむかい、盾と槍をもった沢山の歩兵たちが後に続きます。
遠い昔のこの場所でどんな物語があったのだろうか。そんな好奇心からカンボジアの歴史をひも解いてみようと思いました。 カンボジアはメコンデルタの中央部に位置し、ベトナムのチャンパ王国、ラオス、タイのシャム王国に挟まれ、その歴史の中で何度も他国からの侵略と隣国への侵攻を繰り返し、国内では権力争いで内乱が起こるという非常に忙しく揺れ動く歴史を繰り返してきました。 日本の歴史観をもとにそのようなカンボジアの歴史を見てゆくと、とらえどころの無いような気がしてくるのですが、インドシナ半島全体の歴史、また東南アジアの歴史としての位置付けで考えるとわかりやすくなるかもしれません。 ◆カンボジアの初の国家 カンボジア初の国家は、フン・ティエンというインド人貴族が東南アジアで軍隊を興し、西暦68年にコークトローク島を征服し、誕生したコークトローク国が最初のカンボジアの国家となります。フンティエンの子孫のファン・マン王は西暦230年までに近隣のタイやスマトラ島まで勢力を伸ばしました。 このコークトローク国は5世紀の半ばまで続き、その後インドに侵略されて滅亡します。インドの遠征軍司令官はカオンドンジャヤーヴァルマン王(485〜514年)と称しコークトローク国に君臨しますが、王の死後カンボジアは幾つかの諸国に分かれてインドからの独立運動をはじめます。その中のピアバヴァルマン王がカンボジアを統一しインドから独立に成功します。このとき国名をコークトロークからカンボジアへと変更します。そしてカンボジアは勢力を広げ、王は近隣諸国を破り領土を拡大しました。 ◆アンコールの都へ 西暦787年カンボジアが弱体化したところにジャワがカンボジア南部に侵攻し、カンボジアはジャワの属国になってしまいました。その時にジャワまでつれていかれたカンボジアの王子が、成長してカンボジアへ帰国した後に兵を挙げ、ジャワと戦って勝利し、再び独立をはたします。 王子は807年にジャヤーヴァルマン2世(807〜?)として王に即位しました。ジャヤーヴァルマン2世は首都をバイトレボレアからアンコールの都に移します。 ジャヤーヴァルマン4世(928年〜942年)の時代になると国内の紛争がおこり国力が衰退します。となりのベトナム中部のチャンパ国からも侵攻を受け、都をアンコールからコンポントム州のコーケーに移しました。 ジャヤーバルマン4世没後女婿のリージェンドラヴァルマン2世(944〜968年)が944年に国王に即位し、首都を再びアンコールに戻します。そしてチャンパ王国へ攻撃を加え、チャンパを破って属国にします。 ◆シャム(現在のタイ王国)の侵攻 スレイロムポン王(1347〜1353年)の時代の末期、隣国のシャム(現在のタイ)からの侵略を受けます。長期間の戦争になり、1353年にスレイロムポン王が亡くなり次のスレイソリョテイ王が即位すると、ついに1353年シャムがアンコールトムの都に侵入、国王を殺し、都の財宝をすべて略奪してゆきます。1353年から1357年までの4年間カンボジアはシャムの属国になりシャムの役人が派遣され統治されることになります。 1357年にスレイソリョボン1世王(1357〜1360年)はラオスに行き兵を集め、シャムに捕われていたカンボジア人を蜂起させてシャム軍との戦いを有利に進め、シャムからカンボジアを独立させることに成功しました。 1394年にもシャムはアンコールトムへ侵攻を企てるが成功はしませんでした。しかし1420年に3度目の侵攻を行い、再びカンボジアを支配することに成功しました。 1431年にポニャーヤット王(1421〜1462年)がアンコールトムからシャム軍を撃退し、再びカンボジアはシャムから独立することになります。 ◆アンコールからの遷都とシャムの侵略 シャムから独立したポニャーヤット国王はアンコールトムの都はシャムから侵略されやすいので、都を移すことに決め、コンポンチャム州スレイサントー郡のトゥールパサンに移しました。1年後、今度は現在のプノンペンのあるチャドモックに移転します。その後王は中国と同盟を結び1462年に没するまで平和に国を治めました。 ポニャーヤット王の2代後のスレイ王(1467〜1474年)が1467年に即位して1年後、シャム軍がカンボジア西部に侵攻します。この侵攻がきっかけで内紛がおこりカンボジアは3つに分裂します。1474年トゥーム王(1474〜1498年)はシャムの力を借りて他の2国の王をシャムに追放し、ようやくカンボジアを統一します。 1557年にビルマ軍がシャムに侵攻したので、バロムリヤチャ王(最高王1555〜1567年)はシャムに占領されていた西部の領土を軍隊を送って奪回しました。 バロムリヤチャ王の長男サター1世(1567〜1575年)の時代、1567年には逆にシャムがカンボジアへ再び侵攻してきます。しかし、シャムは再びビルマからの侵略にあい、逆にカンボジアへ援軍を要請してきました。サター1世はシャムの要請に答えて援軍を送り、シャムはビルマ軍を追い払うことができました。しかし、シャム軍はカンボジアの援軍に対して感謝をせず傲慢な態度で、カンボジアを属国のような扱いにしたので、サター1世は激怒しました。再びビルマ軍がシャムに侵攻をしたときには、カンボジアは援軍を送らず、逆にシャムの領土を侵略してゆきました。 1593年、シャムは再び大軍でカンボジアに迫り、カンボジア軍を破り1994年サター1世と息子の国王チェイチェター1世(1575〜1594年)を殺してしまいます。 ◆政治の乱れと内紛 サター1世の遠縁にあたるリヤミヤチューンプレイ王(1594〜1596年)はメコン川沿いの地域で兵を集めシャム軍と戦い撃退します。1594年に即位しカンボジア王となりますがシャム軍の命令を受けたポルトガル人のディエゴベロソとスペイン人のルイスペレスが兵を率いてカンボジアへ侵攻、1596年にリヤミヤチェーンプレイ王を打ち破り殺害してしまいます。 次のカンボジア王はサター1世の次男であるポニャートン王(1596〜1597年)が即位しますが、ポルトガル人のディエゴベロソとスペイン人のルイスペレスを地方の郡の知事に任命します。そして外国人を知事にしたことが国民の反感を買い氾濫がおこり、ポーニャトン王とベロソスとペレスは氾濫軍に殺されてしまいます。その後カンボジアでは政治が乱れ内乱や権力闘争が続きます。 1620年チェイチェター2世(1618〜1628年)は王都をロバイヤアエムからウードン(プノンペンの北北西40km)に移しウードンミヤンチェイと名づけます。この年、隣国ベトナムの黎王朝からベトナム人女性が贈られ、王はこの女性を第一王妃に迎えます。第一王妃は国王から大変に愛され、王妃の希望でベトナム南部からカンボジア南部にベトナム人が次々と入植してくるようになりました。このときからベトナム人はこの一帯にコミュニティーをつくるようになりました。 その後チェイチェター2世は10年間平穏に国を治めますが王の死後、内紛と権力闘争の時期が長く続きます。 1722年にシャム軍から侵攻を受けます。そのときアンエム王はシャムに貢ぎ物をすることを約束してシャムからの侵略を防ぎます。しかしながら、これに不服な声が国内に蔓延し、アンエム王は退位、王子のサター2世が即位します。 ◆シャムとベトナムからの干渉 1731年にはラオス人がベトナム人を虐殺したことをきっかけにしてベトナム軍がカンボジアに侵攻し、カンボジア南部の一部を占領します。1738年には国内の権力闘争に負けてサター2世が退位、その後の国王の時代になっても、ベトナムからの侵略は続きます。 1749年ベトナムに亡命していたサター2世がベトナムの兵を引きいてカンボジアに侵攻、アントン王(1747〜1749年&1756〜1757年)を退位させますが、アントン王の将軍に戦で負けてベトナムへ逃げ帰ります。アントン王の次に王位についたチェイチェター5世(1749〜1755年)が没すると、シャムに亡命していたサター2世が帰国し再び王位につきますが、内乱で翌年命を落とします。 1767年にはシャムのアユタヤ王朝が滅亡するという、カンボジアにとっては大きな出来事が発生します。シャムの新王朝のピヤ・タクシン王は都をバンコックに移します。 シャムの新王はシャムに亡命していたチェイチェター4世の王子アンノン2世(1775〜1779年)を立ててカンボジアへ侵攻し、その時のカンボジアの国王ウテイ王(1758〜1775年)はベトナムのサイゴンへと逃げてしまいます。シャムはアンノン2世、アンエン王(1779〜1796年)の2代のカンボジア王の後ろ盾となり、バッタンバン州、シュリムアップ州をシャムの領土としてしまいます。 1806年シャムのラーマ2世の後ろ盾でアンチャン2世(1806〜1834年)がカンボジア国王となりますが、ベトナムの黎王朝のジャロン帝はこれを不服とし、カンボジアがベトナムの属国となるように干渉し、毎年貢ぎ物をベトナムへ贈るように強制し、アンチャン2世はベトナムに屈します。 シャムはカンボジアへ兵を侵攻させ、アンチャン2世はサイゴンへ亡命します。結局カンボジアはシャムとベトナムの2国間で分断されるような状態になってしまいました。 1834年にアンチャン2世が亡くなると、男子の子供がいなかったのでアンメイ女王(1834〜1840年)が国王の位に就きます。アンメイ女王は3人のベトナム人高等理事官に管理され、政治から文化まですべてベトナム式の様式を強制されます。カンボジア人の着る服から髪型までベトナム式に改めさせられ、農家ではベトナム軍のために新たに食料の徴収がされるなど、かなり厳しい内容だったようです。 アンメイ女王の没後はベトナムはカンボジアを併合し1841年から45年までベトナム人の将軍チュン・ミン・ジアンにより統治されることになります。 1845年にはカンボジアに関してのシャムとベトナムの合意がなされ、1847年アンドオン王(1847〜1859年)がカンボジア国王に即位します。この政権はシャムとベトナムの影響力が強く、アンドオン国王はその当時東南アジアへ進出してきていたフランスへ力を借りようとしますが、そのたくらみがシャムに知られてしまいアンドオン王はフランスの力を借りることをあきらめます。 ◆フランスの植民地化 アンドオン王の長男ノロドム王(1859〜1904年)の時代になると、王室内で権力闘争の内乱がおこり、ノロドム王は一時シャムへ逃げますがフランス軍の力を借りてカンボジアへもどり、氾濫を鎮圧することができました。これがきっかけで1863年カンボジアはフランスと保護条約を締結します。ノロドム王は1866年プノンペンに首都を移転します。1884年6月にはフランス政府のコーチシナ知事シャルル・トムソンがプノンペンの王宮を訪れ、強硬な手段で新しい新保護条約を結ばせます。この新保護条約は前回のとは違いカンボジアの主権を無くしてフランスの植民地状態にする厳しい内容のものでした。 新保護条約の元、フランス植民地政策が次々と進んでゆき、およそ60年後の1941年ノロドム・シハヌーク王(1941〜1955年、1933〜)が即位します。シハヌーク王はノロドム王の孫で1922年にプノンペンで誕生しています。サイゴンのシャロッスロバー高校で在学中に1941年4月シソワット・モニボン王が死亡したため帰国、その年の10月に18歳11ヶ月で即位しました。即位式にはラオスのシーサーバンボン国王、ベトナムのバオダイ皇帝、フランスのジョン・ドクーインドシナ総督が出席しました。 ◇カンボジアの歴史 近代史 へ続く |
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