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■ベトナム王朝その一

0) はじめに
 これから中国から独立した後のベトナム王朝の姿を説明してゆこうと考えていますが、ベトナム王朝の変遷についてはかなり日本の歴史の常識だけでは理解しずらいところがあるかもしれません。なぜならば、日本の歴史の変遷の場合はひとつの勢力がつぎの勢力に権力を奪われるとき、かならず大義名分なり、力の均衡が破れてのち権力が移行して行くわけですが、ベトナムの歴史はそうとばかりは言えず、権謀術数によったり、外圧にさらされたときの臨機応変によって皇帝の位が委譲されたりするからです。この辺は大陸的な歴史の変遷のしかただと考えてください。もしも中国の歴史書や三国史などを読まれた経験があるならばご理解いただけるかと思います。


1) 独立後のベトナム

 ゴ・クェンによって中国からの1千年間の支配に終止符を打ったわけですが、その後の国内の混乱をまとめ、12使君の時代を終了させベトナムに安定をもたらしたのは英雄ディンボリンです。

 ベトナムは中国から独立したとはいえ、すぐにでも中国から再侵略を受ける危険があり、その危険に対抗して国内をまとめて行くためには、中国の行政方法を習って国家体制を確立しなければなりませんでした。それぞれの時代に実権を握ったベトナム王朝は、中国からの侵略と常に戦って勝ち抜き独立を維持して行かなくてはならなかったのです。
 中国は自らを華人と呼び、周囲の民族を蛮夷として、自らを文化の中心と位置付けましたが、ベトナムも自らを京人とよび、国王を皇帝と呼称しました。ちなみにこの京人が後に京(キン)族という現在のベトナムの主要な民族の呼び名のもとになります。
 政治体制を中国式にするといっても一朝一夕にできたわけではなく、儒教と科挙官僚制度に基づく中国てきな中央主権体制が整ったのは15世紀の黎朝になってからのことです。それまでは比較的緩やかな集権体制で、皇帝も王座につくまでは城外で市民とともに生活し、長男が皇帝を継ぐ長子継承制度も出来上がっていませんでした。

 英雄ディンボリンはホアルウを首都に定めベトナムの統一を行いました。彼は後継ぎを長子リエンを差し置いて弟のハンランを皇太子に決めてしまいます。その上、末弟のディントゥエを衛王と決めます。これを不満に思った長子リエンは弟ハンランを殺害してしまいます。宮廷内の乱れに乗じて廷臣のド・ティェック(杜釈)がディンボリンと長子リエンを策略を使って殺してしまいます。ド・ティェックは殺害から3日後につかまり首をはねられ、まだ幼いディントゥエが帝位につきます。このディントゥエがディン王朝の最後の皇帝となります。


2) 黎(レ)朝 (981年〜1009年:3代:29年間)

 幼いディン・トゥエ皇帝に代わって摂政となり実権を握ったのは、レホアン(黎垣)将軍です。秦にかわり中国を統一した宋は南のベトナムでの異変を知りこの機に乗じてベトナムへ進攻することを決めます。
 ベトナム側でも宋の大軍が進攻してくることがわかり、幼い皇帝を廃し、代わってレホアンが帝位につきます。黎王朝の誕生、980年のことです。
 981年宋軍は海陸両面からベトナムへ進攻しましたが、レ・ホアン軍に負けて退却します。レホアンはこの勝利後直ちに宋の皇帝へ使者を出し、ベトナムの領土を安堵するように訴えます。勝利にもかかわらず、このような使者を出すのはベトナムの上手な外交戦略ではないでしょうか。宋の皇帝はレ・ホアンに安南都護のくらいを送りベトナムの統治をみとめます。

 1005年にレホアンは亡くなりますが、彼は後継ぎを第3子に決めていました。これに不満を持った第5子のレ・ロン・ズィンに殺されてしまい、レ・ロン・ズィンが皇帝の座につきます。レ・ロン・ズィンは歴代の皇帝の中で一番残酷で非道な皇帝として知られています。しかし彼も1009年に亡くなり、後継者争いが起こり、リ・コンウァンによって幼帝が殺されて、黎王朝はわずか29年で滅びてしまいます。かわってリ・コンウァンが皇帝の座につきます。


3) 李(リ)朝 (1010年〜1225年:9代:215年間)

 初代皇帝リコンウァンは、首都をホアルウからタンロン(昇龍)(現在のハノイ)へ移しました。また3代皇帝リ・タイン・トン(李聖宗)は国号を大越(ダイベト)とします。4代皇帝リ・ニャン・トンはわずか7歳で帝位を継ぎますが彼の時代に、宋から攻撃を受けます。
 そのころ宋の政権で力を握っていた宰相の王安石は、宋の皇帝にベトナム進攻を進言し、1074年宋はベトナムへ進攻をはじめます。

 ここで英雄リ・トン・キエト(李常傑)が登場します。幼い皇帝に代わり将軍リ・トン・キエトは政治軍事の実権を握り、文武両道に優れた彼は、宮廷内の厚い信頼を得ていました。
 宋軍の攻撃が始まる前に、リ・トン・キエト将軍は10万の大軍をもって中国領土内へ進攻し勝利を収めます。宋軍はチャンパ国やカンボジアなどの軍と協力し、ベトナム軍と対戦し、一時は首都のタンロンまで迫りますが、首都の攻防戦でリトンキエトの戦略によって大打撃を与えられ、国境地帯まで敗退します。
 リトンキエトは宋の皇帝へ和議の使節を送り、1096年に和議が成立し、再びベトナムの独立は安定することになります。
 1105年リトンキエトは70歳で没しますが、彼の功績をたたえて国公(大公爵)の位を贈られました。

 李朝最後の皇帝リ・フエ・トンは能力のない人物で、政治は人任せにし、次第に国力が減退して行きます。チャン・トウ・ド(陳守度)に強要され皇位を7歳の娘の昭皇に譲ってしまいます。チャントウドは自分の甥チャンカインを昭皇と結婚させ王位につけ実権を握ります。リ・フエ・トンは自殺してしまい、チャン・トウ・ドは李氏一族をことごとく殺害してしまいます。こうして李朝は終わりを告げます。


4) 陳(チャン)朝 (1225年〜1413年:188年)

 陳朝になると中国に変わって元の蒙古が、侵略の脅威となってきます。元はチンギス・ハンによって13世紀にモンゴル高原に建国され、西はロシア、トルコ、ペルシャ、東は中国、朝鮮を征服した巨大な帝国です。5代フビライハンの時代に、ベトナムへ3回にわたり進攻してきました。

 はじめの進攻は1257年の暮、陳朝初代チャン・タイ・トン(陳太宗)の時代のことでした。元軍は首都タンロンを制圧しましたが、激しい暑さと食料不足で一時撤退せざるを得なくなりました。この撤退する元軍に後ろから追い討ちをかけて、徹底的に打ち破ったのが、英雄チャンフンダオ(陳興道)(チャン・クォック・トァンとも呼ぶ)です。

 二度目の進攻は3代チャン・ニャン・トンの時代でした。彼は元軍に備えて英雄チャンフンダオを全軍の総指揮官に任命しました。
 1285年1月元軍はベトナムへ進攻し各地で勝利し、首都へ迫りますが、チャンフンダオは小人数のゲリラ戦を挑み、食料を隠したりして、元軍の動きを止めから総攻撃に移り、見事元軍を撃退してしまいます。

 1286年元は3度目のベトナム進攻をはじめます。元軍は前回の失敗を踏まえて、今回は食料の輸送のために大船団を繰り出してきました。陸海両方からの進攻を開始しました。
 チャンフンダオ率いるベトナム軍ははじめに食料輸送船を襲い、陸の軍の足を止めてから、ゴクエン(呉権)の先例に習って大船団をバクダン(白藤)河河口で襲い、引き潮になったときに、あらかじめ打っておいた鉄の杭で敵の大船団が転覆するところを襲いかかり、壊滅させてしまいます。驚いて逃げる陸の元軍には、伏兵としてあらかじめ用意しておいた英雄フォングーラオ将軍率いるベトナム軍が襲いかかりこれも壊滅させてしまいました。

 元は日本へ3度目の進攻を計画していたが、ベトナムの抵抗にあって計画を中止したと言われています。

 1294年フビライハンが亡くなり、ベトナム進攻は亡くなりました。そしてその元も次第に勢力が衰え1367年に明によって滅ぼされてしまいます。

 陳王朝も、チャンゲトン(陳芸宗)皇帝の時代、皇帝が遊び好きで、部下を簡単に殺したので国内で反乱が起こり国力が衰えてきていました。
 1400年チャン・トアン・トン皇帝がレ・クィ・リにより殺害されてしまい、彼はホ・クィ・リと名を改めて自ら皇帝を名乗りました。
 この知らせを聞いた明は、陳朝の復権を口実に軍勢をベトナムへ送り込み、ホ・クィ・リを殺害しベトナムを支配下におきます。これに対抗して、陳朝の旧臣たちは陳朝の流れを汲むジャンディン帝を立てて明軍と戦いますが、ジャンディン帝は明軍につかまって処刑されてしまいます。その後ジャンディン帝の甥のチャン・クィ・コア帝を立てて再び明軍と戦いますが、これも敗れてしまいます。1413年陳王朝は明軍によって滅ぼされてしまいます。







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