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■ホーチミンと独立宣言



 ホーチミンという名は日本人でさえもたいていの人ならば知っていると思いますが、彼がどんな人物で、実際に何をしたのか知っている人は意外と少ないはずです。ここでは、社会主義というイデオロギーの中での彼というよりは、独立運動の中での彼の役割という面で、史実に沿って記述して行こうと思います。

 1884年6月6日ベトナムはフランスとパトノゥトル条約を結び、完全にフランスの植民地なります。
 1885年グエン王朝のハムギ帝はフランスの統治に反抗してクーデターを起こしますが、失敗してアルジェリアに流されます。しかし彼は全国の土豪に対して「勤皇の檄文」を送りフランスへの抵抗を促します。
 ハムギ帝の檄文を受けてゲティン省の山岳地帯に根拠地を築いてゲリラ戦でフランス軍に対抗したのがファン・ディン・フンでした。 またトンキンデルタ地帯ではデ・タム(提探)がゲリラ戦でフランス軍を悩ませました。しかしながらファン・ディン・フンは1895年に、デ・タムは1913年に殺されてしまいます。
 ドンズー(東遊)運動で知られるファン・ボイ・チャウはトンキンにいるデ・タムの二人の息子と出会い、抗仏運動の新党「維新会」を作ります。彼はアジアの中でベトナム独立のために力を借りられる国は日本しかいないと考え、日本へわたります。
 日本で大熊重信、犬養毅らと会った彼はベトナム独立のために力を貸してもらいたいと話しますが、彼らの意見は「ベトナム独立のためには人材を育てることが先だ」と言うことでした。ファン・ボイ・チャウは日本が軍事面や経済面で国力をつけている姿を見て、ベトナムの青年に日本へ留学するように勧めて、人材を育成することにします。これがドンズー(東遊)運動と呼ばれるものです。
 ベトナムからの留学生は100〜200人にのぼりました。その多くは清国の学生と身分を偽って入国し、日本の軍事技術を学んだということです。この情報をつかんだフランスは、日本政府へ日仏協定をたてにベトナム人留学生の国外追放を迫ります。そして1909年には日本にいたベトナム人学生はすべて日本を去ります。
 その後ファンボイチャウは上海でフランス官憲に逮捕され、1925年11月23日ハノイで終身の懲役刑を宣告されますが、12月4日には国内外の世論に押されて釈放されフエの自宅に軟禁されることになります。1940年10月29日フエの自宅でひっそりとその生涯を閉じました。

 1890年5月19日ベトナム中北部のゲアン省にグエン・シン・クンという男児が生まれます。後のホーチミンです。彼の出生についてはなぞの部分が多く、また30年もの間海外で暮らしていた革命家としての必然から、名前も30以上の偽名を使い分けていました。
一般に知られている名はグエン・アイ・コックやホーチミンといった名前ですが、ここではわかりやすくホーチミンで統一します。(ホーチミンという名は1942年に中国に潜入するために作った名だと言われています)。
 成長したホーチミンはフエの名門校クォック・ホック学校に入学します。卒業するとファンティエットの小学校でフランス語とベトナム語の教師をします。(この学校は今は博物館になっていて見学できます)
その後サイゴンへ行き、1911年にフランス商船のコックの見習いとして乗船し、世界各国を渡り歩きます。1917年にはフランスのパリに居を落ち着かせ、ベトナムをフランスの植民地から独立させる運動をしているベトナム人グループの中で活動をするようになります。
 1919年にはパリのベルサイユで開かれていた第一次世界大戦の講和会議にグエンアイコックの名でベトナムのフランスの植民地からの解放のための請願書を提出します。また1920年にはフランス社会党大会で彼がインドシナ代表として発言し、彼の名は次第に注目を浴びるようになって行きます。
その後彼はモスクワへ渡りその後再びアジアへ戻ります。1930年2月7日には香港でベトナム共産党を結成します。
 しかしベトナム国内でのストライキや市民による反乱が各地で起こったために、フランス植民地総督府はベトナム人運動化の取り締まりを国内外で強化したためホーチミンもモスクワへ逃亡したりしなければなりませんでした。

 1940年6月17日フランス本国はナチスドイツに降伏します。それまで日本軍は、中国大陸で中国軍と戦っていましたが、中国側への物資補給はベトナム北部の港や陸路から行われていたので、これを止める必要上9月23日に日本軍はベトナム北部へ進駐します。

 ベトナム国内の混乱の中、ホーチミンは1941年2月8日に30年ぶりに祖国の地を踏みます。同年5月19日にベトナム独立同盟(通称ベトミン)を結成し、ベトナム国内からフランス軍と日本軍を駆逐しベトナムを独立させる運動を国内で起こします。
 その後ホーチミンは中国共産党と連絡をとるために中国国境を超えたところで共産主義者の取締りを強化していた中国の蒋介石軍につかまってしまい、1944年に帰国するまで中国国内で投獄されてしまいます。
 44年10月に帰国すると、直ちにボ・グエン・ザップ将軍を司令官とした武装隊を結成し、フランス軍へゲリラ攻撃を仕掛けて行きます。1945年3月9日、敗戦の色が濃くなってきた日本軍は米軍に対する最後の防衛線として、インドシナ全体を占領する計画を立て、実行します。5月15日にはフエでバオダイ帝を擁立してベトナムのフランスからの独立を宣言させます。日本軍がベトナム全土を占領した年は凶作の年で、フランス総督府が食料を隠したために大飢饉となり、200万人ものベトナム人が餓死した悲劇が起こってしまいます。

 1945年8月15日日本は連合国に無条件降伏し、この情報を短波放送であらかじめ察知していたホーチミンはベトミンの総決起集会を8月16日行い、武力による総蜂起を決定します。
 8月19日にはハノイの政府官舎を占領、24日にはフエでベトミンが権力を掌握し、25日にはサイゴンを掌握します。そして9月2日、ハノイのインドシナ総督府前の広場で独立記念式点が開催され、ホーチミンがベトナム共和国の独立宣言を行います。その後1946年の総選挙で彼は初代大統領に就任します。

 しかしながら、その後フランスによるベトナムの再占領によってインドシナ戦争が起こり、アメリカとのベトナム戦争へと突入して行きます。

 先年ハノイを訪れたとき、ホーチミン氏が晩年を過ごした邸宅を見る事ができました。あのいかにも社会主義のどーんとでかいつくりのハノイのホーチミン廟前の広場に比べて、いかにもアジア人である私の好みに合った二階建ての小ぶりの瀟洒な家でした。
 ベトナム戦争のさなかの1968年にベトナム人民軍がテト攻勢をかけ戦局的に優勢になった翌年の1969年9月2日独立宣言と同じ日に、彼は静かに息を引き取りました。







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