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チャンパ王国の歴史について

ベトナム中部にはたくさんのチャンパ王国の遺跡が残っています。ニャチャンからダラットへ行く途中にも、チャンパ王国の遺跡があります。小高い丘の上に立つBoclongarai寺院です。この丘の上に登って平野部を見下ろすと、荒涼としたサバンナのような平原がそこにあります。サイゴンから南では、果てしなく続く水田の景色が旅人に日本の水田風景を思い起こさせましたが、ここには水田がありません。資料をみるとこのベトナム中部では稲作に適した土地は非常に少ないと書かれています。そのような収穫のない土地にいかにしてこのような建築物が出来たのだろうか、そんなことを丘の上に立って考えていました。

一般的にベトナムの歴史は1400年代までは、北部のキン族の歴史がメインになりますが、(その理由は資料が豊富に残っていることにも関係すると思います)、実際のところ中部以南ではチャンパ王国が勢力を持っていました。そして、そこでは北部とはまったく違った文明を持っていました。
例えば、「南洋の浅黒い肌を持つたくましい顔つきの王と、彼に率いられる像の戦車を中心にした軍隊。港には始終中国やインドネシア、遠くはインドから商船が入ってきて盛んに交易が行われています。陶磁器や香木、象牙、美術品などの取引が港に面した問屋で行われています。王家は交易で儲けた財産で盛んにその勢力を示すための寺院や塔を建築します。また、遠く台湾や琉球から王女が嫁いできて、新しい血を王家に入れました。」私がチャンパ王国を想像するときいつもこのような姿が目に浮かびます。

遥か南のインド洋からマラッカ海峡を抜けて、マレー半島からメコンデルタ沖〜ベトナム東海岸を北上し、中国まで抜ける海上ルートが、紀元前1000年ころには出来ていました。現在ではこれを海のシルクロードと呼んでいます。中部ベトナムでは、稲作が出来ないのですが、その替わりに、黒檀などの香木、象牙、犀角などの高級輸出品を産出していました。中部ベトナムの港ではこれらを交易して莫大な利益をあげて行きました。これをもとめて中国や北部ベトナムのキン族が南下し、その勢力を撃退するために、中部ベトナムの村落がまとまって行き、村落共同体がそのうちに一人の英雄によって王国になったというのが、そもそもの王国の始まりであったと推測しますが、この辺の正確な資料はまだ分かっていないようです。

歴史に初めて出てくるのが林邑(ラムアップ)国です。西暦137年のことです。初期の首都はハイバン峠の北、フエの近くにあったといわれています。いつのころからか、はっきりした資料は無いのですが、4世紀にはこの林邑国はインドの文化を取り入れ、ヒンドゥーの文化が盛んになりました。王はバラモン(聖職者階級)にあこがれ、遠くインドにまで修行に出かけた国王もいたほどです。チャンパで使用される言語はオーストロネシア系言語でした。中国系のキン族はオーストロアジア系の言語を使用していることから、やはり文化はずいぶんと違っていたようです。チャンパの碑文ではインド系のサンスクリット語や古代チャム文字などが使用されています。
7世紀から8世紀にかけて中国では林邑の呼び方が占婆(せんば)に変わります。占婆=チャンパの音を漢字に当てたものと思われます。875年ごろにクアンナムのドンヅオンに新政権が誕生し、インドラヴァルマン2世王が大乗仏教の寺院を建設したと碑文に記されています。林邑の時代には小乗仏教が伝わっていたらしい。このあたりはインド文化の影響といってもヒンドゥーばかりではなかったことが伺われて、面白いと思います。

982年に中国の混乱に乗じて独立した北部ベトナムが、チャンパの都に攻め込み、パラメシュヴァラヴァルマン王が殺されました。しばらく混乱が続いた後、少し南部に都が移り、ヴィジャヤが新都になります。現在のフエとニャチャンの中あたりの位置になり、重要な港のクィニョン湾をもち、豊かな平原をもっていました。
12世紀にはヴィジャヤは全盛期のカンボジアによって攻められ、属国とされてしまいます。13世紀にはアンコールトムを造ったジャヤバルマン7世の領土になってしまいます。この頃のアンコールの都の話はこちらを参照してください。
 1282年には蒙古のフビライカンに攻められます。この後1367年に元が滅びるまで、チャンパは元に対して貢物を毎年差出します。
14世紀は後半にかけて北部ベトナムとチャンパの一進一退のやり取りが続きます。北部ベトナムがヴィジャヤへ攻め入ったり,チャンパのほうがハノイへ攻め入ったりしています。しかしながら北部ベトナムで黎朝が起こると、力関係はたちまち北部ベトナムに偏より、チャンパは南へ南へと追いやられて行くようになります。1471年レタイントンがヴィジャヤを占領、これより北方をベトナムの領土とします。このときの占領で北部ベトナムはたくさんの入植者を南部へ連れてきて、南部の文化をベトナム化して行きます。南部に逃れたチャンパは、中国へ応援を求めますが、応援軍が来ることはありませんでした。16世紀から17世紀にかけての大航海時代には、ベトナムがチャム人の水夫を使って、かつてのチャンパの港であるホイアンなどで、大規模な交易ネットワークを築いて行きました。
現在のチャム族はベトナム南部やカンボジア、ベトナム中部高原地帯にその子孫を残しています。

調べて行く途中で、チャンパ王国と日本が意外なところで触れ合っている事を知りました。それは、ろくろっ首の伝説がチャムから来たことや、沖縄琉球王国の王女がチャンパ王国へ嫁いでいった話など、様々な話しが海のシルクロードを通じて日本にまできているのです。海上交通の交易を通じて輝くような王国を築いていったチャンパ王国を訪ねて、再びベトナムへ行きたいとおもいました。

〈遺跡スナップ写真〉










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