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多民族国家マレーシア |
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![]() ■多民族国家マレーシア
マレーシアは海のシルクロードを通じて東西の交易で繁栄してきた国ですが、近代の歴史は西欧列強による植民地化の歴史でもありました。 1511年にポルトガルがマラッカを占領して以降、ポルトガル⇒オランダ⇒イギリス⇒日本(第二次大戦中)⇒イギリス、という具合に宗主国が変わってゆきました。その中で、貿易、産業の発展とともに中国やインドから移民たちが移り住んでくるようになり、現在のような多民族国家の形態になってきたのです。 1957年にマレー半島とシンガポールがマラヤ連邦として独立をした後も多民族の共存は続き、どちらというと中華系は少数派だが金持ちで、マレー人(ブミプトラと呼ばれる)は多数派(およそ60%)だが貧乏という風に格差が広がってきました。 そのようなギクシャクした民族間の格差が広がってきた1967年5月13日に、選挙運動で野党を応援していた中華系住民と、それに反対していたマレー系住民が衝突をおこし、多数の死傷者を出す事件に発展してしまいました。この事件は5・13事件と呼ばれています。多数派のマレー系住民は、金持ちの中華系住民がこれ以上勢力を拡大し格差が広がることを懸念して、衝突が生じたのです。 それまでマレーシア政府は民族融和政策をとってきましたが、1970年に首相になったアブドル・ラザク首相は、多数派のマレー人を優遇する政策「ブミプトラ政策」をとるようになりました。この政策は、①マレー人と他の民族との所得を均衡させる、②マレー人の雇用比率を法律で定めて優先させる、③会社の資本金へのマレー人の出資比率を法律で定めて、一定の出資比率にさせる、④マレー人資本の会社を増やす、の四つの柱で構成されたマレー人優遇の経済政策です。 同時にラザク首相はルク・ネガラと呼ばれる国の原則5項目を打ち出しました。①全国民の強力な団結、②民主主義の継続、③国家の富の公平分配、④多様な伝統文化を守る、⑤近代技術に適合した社会の構築、この五つの項目を柱としたものでした。 上記の政策をさらに進化させて進めていったのが、マハティール首相でした。1981年から22年間の長きに渡って、マレーシアの経済発展を牽引してきたマハティール首相は、ブミプトラ政策でマレー人の不満を解消しやる気をおこさせながら、「ルックイースト政策」で、日本の先進技術と経済発展を見本としてマレーシアの経済を発展させることに成功しました。 経済発展の波に乗って、民族間の対立は解消されましたが、現在でも民族の融和は政府の大きな課題としてマレーシアの政治、経済に大きな影響を与え続けているのです。 |
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