スタンフォード・ラッフルズとシンガポール

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◆ラッフルズとシンガポール

シンガポールにはラッフルズ公園、ラッフルズプレイス駅、ラッフルズホテルなど、ラッフルズの名前を冠した場所が多くあります。シンガポールでは知らない人はいないラッフルズとはいったいどんな人物だったのでしょうjか。


トーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿

Sir Thomas Stamford Raffles   1781年7月6日〜1826年7月5日


 1781年7月6日、西インド諸島を航海中の商船で一人の子供が生まれました。彼の名はトーマス・スタンフォード・ラッフルズ。後に本国イギリスから遠く離れたアジアで、交易と植民地開発に辣腕を振るった、彼らしい誕生の仕方であったように思えます。

 彼は1795年14歳で東インド会社ロンドン本社で採用され、1805年からペナン勤務となります。

 インドのカルカッタにあったイギリスの東インド会社は、東南アジアの海上交易上重要なマレー半島のマラッカ海峡の北部にあるペナンと、中部にあるムラカ(Melaka:英語ではマラッカMalacca)を支配下に置いていました。

 そこでラッフルズはマラッカ海峡の南端にあるシンガポール島に目をつけます。ここを抑えれば、マラッカ海峡を実質的にイギリスの影響下におくことができます。

 1819年1月28日に彼はシンガポール川河口にあるカンポンと呼ばれていた小さな集落に上陸しました。現在この上陸地点には、ラッフルズを記念して、彼の銅像が立っています。

 しかしながら、当時シンガポール島はマレーシア・ジョーホールとインドネシア・リアウの双方を支配しているジョーホール・リアウ王国から支配されていて、オランダの影響力が強くイギリスの入り込む隙はありませんでした。

 そこでラッフルズが考えたのは、このジョーホール・リアウ王国の後継者争いを利用することでしました。1812年に国王が死去した後、長男のフセイン王子を差し置いてオランダの後押しで次男のアブドゥル・ラーマンが国王になってしまったため、後継者争いの火種がくすぶっていたのです。

 ラッフルズは長男のフセインを後押しすることによって王位につかせ、その見返りに1819年2月6日条約を結びシンガポール島の一部をイギリス領にすることに成功したのです。当然オランダはこのことに猛反対しましたが、ラッフルズの既成事実をかえることができず、1824年には英蘭協約を結び、シンガポール全島がイギリスの植民地になりました。

 ラッフルズは1822年から23年にシンガポールに滞在して、その後イギリスに帰国しました。

 ラッフルズはシンガポールの植民地化に貢献したわけですが、その後のシンガポールの街づくりを実際に行ったのは、シンガポール初代総督ファークハルでした。現在公園になっているフォートカニングの小高い丘に総督官邸を建設して、街づくりを行ったのでした。

 シンガポールを支配下に置いたイギリスは、1826年にペナン、ムラカ、シンガポールの3都市を合わせて海峡植民地とし、マラッカに首都を置きました。その後1832年にシンガポールに首都を移しました。

 1819年にラッフルズがシンガポール島に上陸した時には住民はおよそ150人足らずであったのですが、その後5年で1万人を超えました。1840年には3万5千人、1901年には23万人に増加しました。その後100年たった今では2008年におよそ460万人になっています。ラッフルズが上陸してからのこの島の開発発展は驚くべきものであったと言えるでしょう。





 


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