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■多民族国家としてのシンガポールのあゆみ

中華系、インド系、マレー系などの複数の民族が集まり、ひとつの国家を形成し、充分にうまく国家を運営することができているシンガポールとはどんな成り立ちでできたのでしょうか。

19世紀の始め、ラッフルズによりイギリスの植民地と化したシンガポールは、中継貿易を行い利益を上げていました。

中継貿易とは、地域の国々の産品を一度一箇所に集めて、それを別の場所にまとめて輸出するための、中継をすることを言います。

シンガポールは東南アジアの中央に位置しマラッカ海峡の南端という好位置にあったため、ベトナム、インドネシア、マレーシア、タイなどの東南アジアの産品をシンガポールに集めて、遠くヨーロッパへ輸出していたのです。

例を上げると、マレー半島で産出された金、すず、ベトナムの米、砂糖、中国のお茶やシルク、インドネシアの香辛料などをシンガポールへ集めてから、ヨーロッパへ輸出し、逆にイギリスなどからは鉄、銅製品、ライフル銃、ガラス器、時計、綿の衣服などを輸入していました。

19世紀後半になると、ヨーロッパから大規模な農業を行うプランテーションの技術が持ち込まれ、東南アジア各地にゴム、砂糖などのプランテーション農園が作られ、そこで産出される商品が、主要な貿易品と変わって行きました。

1840年の清国(中国)とイギリスのアヘン戦争が起こり、1856年の第2次アヘン戦争での清国の敗戦を通じて、アヘンの流通量が増大し、ヨーロッパの植民地政府が独占的に貿易を支配し、シンガポールでのアヘンの貿易量が増大してゆきました。

日々拡大するシンガポールの経済を底辺で支えていたのは、イギリスの植民地からつれてこられるクーリーと呼ばれる低賃金の労働者たちでした。彼らは主にインド、中国、マレー半島から来ましたが、現在のシンガポールの人口構成の主な民族も、中華、インド、マレー系が大部分を占めています。

実はシンガポールの人口増加は植民地政策でつれてこられたクーリーだけではなく、自発的に本国からシンガポールに職を求めて移ってきた移民たちも中には含まれていました。アジアの各地から、仕事を求めてシンガポールへやってきて、そのままいついてしまう人々もいたのです。彼らは、同郷の知人や親戚を頼ってシンガポールへやってきました。

1819年にラッフルズがシンガポール島に上陸した時には住民はおよそ150人足らずであったのが、、その後5年で1万人を超えるほどになりました。100年後の1901年には23万人にまで増加しています。

◆◆◆

しかしながら、第2次世界大戦後、イギリスの植民地から独立を進めるなか、1959年の自治政府誕生後は、移民の増加を制限する政策がとれらるようになり、これ以降は移民によってではなく、自然の人口増加へと移ってゆきます。

同様に、シンガポールは中継貿易の拠点としての役割だけでなく、工業化への転換がはかられ、日本やアメリカ、ヨーロッパからの投資によって製品を製造する工場を造り、クーリーの時代から企業家やビジネスマンが活躍する時代に変わってゆきました。

さらに時代が下ると、国の政策でアジアの金融センターとしての役割を担うことに成功しています。

独立後のシンガポール生まれのシンガポール国民の誕生によって、人々の国家意識は180度変わって行ったのです。

長い年月で混血も進んでゆきました。例えば、中華系とマレー系の混血をプラナカン(Peranakan)と呼びますが、その女性が作った料理をニョニャ料理(nonya food)と呼び、シンガポールの料理の一つの分類になっています。

また、シンガポールを植民地にした張本人のラッフルズの像を彼の最初の上陸地点に建てるなど、植民地時代に自分たちを低賃金で使い苦しめられてきたイギリスについても、すでにそのことについてのわだかまりも消えてしまい、逆にイギリスから持ち込まれたヨーロッパの文化を取り入れて生活の中で楽しんでいます。

そんな現代のシンガポール人は、多民族国家の中で自分たちのアイデンティティーをしたたかに確立し、東南アジアのひとつの重要国家として存在感を増してきたのです。












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