ラッタナコーシン王朝その①

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ラッタナコーシン王朝

ラーマ1世:チャオプラヤー・チャックリー(在位:1782〜1809年)

 タークシン王を倒した後、ラーマ1世はトンブリーから現在のバンコクへ都を移し、そこにアユタヤの都を模して王都を建設しました。

 バンコクはアユタヤに比べると、海に近く外国との交易には便利な土地でしたが、もともと土地が低く大都市を造るには不向きな場所でした。しかしながら、土地改良の技術の進歩と共に、親中国政権だったタクシン王が中国からつれてきた沢山の中国人を使い、、バンコクの都市造りを進めることができました。

 ラーマ1世時代にバンコクの発展とともに、タイの経済も飛躍的に発展しました。アユタヤの都市以上に、外国船や外国の商人が集まる都市にバンコクはなりました。

 また、ラーマ1世の時代に、アユタヤ王朝の最後に清朝に攻められてタイから撤退したビルマが、再び勢いを盛り返して1785年タイを攻撃しますが、事前に情報をつかんで準備していたために、撃退することに成功します。

 タイ北部のランナーではビルマの拠点になっていたチェンセーンを攻撃してビルマ軍を撃退することに成功、以降ランナーでもビルマの影響下から離脱することが出来ました。

 ラーマ1世は北部だけではなく、南部のマレー半島、カンボジア、ラオスまで支配を広げ、タクシン王の時代よりも広い領土を接統治するようになりました。属国として間接統治する領土だけでなく、直接統治する領土も、アユタヤ時代よりも拡大しました。



ラーマ2世:イッサラスントーン王(在位:1809〜24年)

 ラーマ1世が亡くなりラーマ2世の代になると、ビルマ軍は再びタイへ攻撃を仕掛けてきます。1809年プーケットのタラーンまでビルマ軍が進撃しましたが、タイの軍隊によって撃退され、これ以降ビルマはタイへの侵略を試みることがなくなりました。

 ラーマ2世の時代インドシナ半島の東に位置するベトナムの勢力が強まり、カンボジアの統治権をめぐってベトナムとタイとで争いが起こります。最後に両国で話し合いの結果、カンボジアの宗主権を両国が持つことになりました。

 また、1827年にはラオスのビエンチャンを治めていたアヌウォン王がタイに対して反抗の軍勢を出す事件がおこります。タイ軍はラオス軍を打ち破り、ビエンチャンまで押し返すと、ビエンチャンを徹底的に破壊し、アヌウォン王をバンコクへ連行すると処刑してしまいました。これ以降ビエンチャンはタイの直接統治になります。


 このころイギリスが、以前のような海のシルクロードとしてではなく、東南アジアの資源に目をつけてタイにもやってくるようになりました。

 マラッカ海峡の入り口にあるペナン島は格好の港であることに目をつけたイギリスは、タイの属国であったペナン島を統治するクダー領主に交渉をして、自由貿易港としてイギリス領にしてしまいます。
 属国のクダーが認めても、宗主国のタイは認めていないという状況でペナンはイギリスに渡ってしまったのです。
 この後イギリスは東インド会社を使って、ラッフルズ卿などの働きでムラカ(現マラッカ)、シンガポールの、マラッカ海峡の入り口と真ん中、出口を押さえることに成功します。



ラーマ3世:チェーサダーボーディン王(在位:1824〜51年)

 ラーマ2世の長男で、政府の仕事を歴任した後に王位につきました。敬虔な仏教徒で彼の時代だけで合計36の寺院が建設されています。タイ式マッサージの学校があるワットボーもラーマ3世の建立によるものです。

 ラーマ3世の時代にはバンコクの都は栄え、国王自らタイ文化を楽しみ広げてゆきました。王室も貿易の利益で大変潤っていた時代です。

 インドシナ半島に進出を進めるイギリスは、1824年にビルマと戦争をして、ビルマを破りました。ラーマ2世の時代にタイに進撃しましたが、その後イギリスとの紛争に力を使い、そして敗れたのでした。

 イギリスは、ビルマとの戦争中に、東インド会社のヘンリー・バーネイをタイに派遣して、自由貿易のための条約を交渉させます。バーネイはタイ語に堪能で、交渉もうまく、1826年バーネイ条約をタイと結ぶことに成功します。

 バーネイ条約はタイとイギリス双方の平等な条約で、イギリス人の治外法権などの不平等な内容は含まれていません。しかしながら、船幅税を取る代わりに、それ以外の税は一切なしとなり、イギリス人のバンコクでの貿易が保護されています。
 しかしながら、この条約により関税が取れなくなった王室は、大幅な収入減となり、これ以降王室独占貿易の崩壊につながってゆくことになります。
 また、失われた利益を取りもどすために、税金を確実に徴収するための徴税請負制度を導入し、請負人を主に中国人に委託しました。





  


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