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立憲革命後

 タイの立憲革命は留学生が作った人民党によるものでした。同様にベトナムではホーチミンがフランスへ渡り、ヨーロッパ各国で植民地からの独立運動を始めていた留学生と共産党を結成し、フランスからの独立に成功します。⇒ベトナム歴史
 カンボジアでは国費留学生が共産党を結成し、シハヌーク国王から「クメールルージュ(赤いクメール人)」と非難の言葉を浴びせられ、それが通り名となりました。⇒カンボジアの歴史
 この頃の東南アジアの歴史を動かした原動力となったのは、勉学の優秀な留学生たちだったようです。


 さてタイで革命に成功した人民党でしたが、1年もすると主義主張の違いから分裂してしまいます。1932年に就任した初代首相のプラヤー・マノー・パコーンは1933年に、クーデターによって政権を奪われ、プラヤー・パホンが首相に就任します。この後すぐにボーウォーラデート親王のクーデターが起こりますが(1933年10月11日)、このクーデターは失敗し、彼は1938年まで首相を務めます。

 1938年プラヤー・パホン首相は議会を解散し、総選挙を行ないますが、選挙に勝って首相に就任したのはピブーンでした。ピブーン首相は1939年に国家信条を公布し国名を「シャム」から「タイランド」へ変更し、国民のナショナリズムを高めようとしました。そのころのタイの経済を牛耳っていたのは中国系の国民でしたが、この中国系の国民の経済活動を弱めるために、彼らが行なっていた米の流通を国で管理することにしました。そして中国系の国民に対して、タイの文化や言葉を使うようにさせます。このことにより、中国系の国民は徐々にタイ人の社会のなかに溶け込んでいったのです。


第二次世界大戦

 1939年9月1日ヨーロッパでナチスドイツ軍とスロバキア軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まります。当初ヨーロッパ戦線ではドイツがイギリスとフランスを圧倒しており、フランスにより領土を大幅に削られていたタイは、有利なドイツ、イタリア側について領土の回復をと考えましたが、前回の第一次世界大戦同様、最初から態度を明らかにせず中立を宣言します。

 インドシナ半島に植民地を持っていたイギリスとフランスは、ヨーロッパ戦線に没頭しなければならない状況になったため、1940年タイと不可侵条約を締結します。直後日本もインドシナ半島への進出の足がかりにするためタイと不可侵条約を結びます。この直後、フランスはドイツに降伏し、ドイツの傀儡政権のヴィシー政権が成立したのです。

 フランスの降伏を見てタイは、フランスに対してかつてのタイの領土を取り返す交渉を始めました。1904年にフランスに割譲したメコン川のルアンプラバーン対岸と、チャンパーサックの返還とラオスとカンボジアの宗主権の返還をフランスに要求したのでした。

 しかしながらフランスとの交渉はなかなか進展することはありませんでした。そして1940年11月、フランスはタイへの空爆を実施します。これに応戦するタイは空爆の応酬だけではなく、翌年の1941年1月には仏印(フランスインドシナ領)へ進軍を開始します。この進軍はうまく行きカンボジア北部を制圧することに成功しましたが、タイ湾での海軍の戦闘ではフランス軍に軍配があがります。

 この両国の戦闘の間に入って和平交渉を進めたのは日本でした。日本はインドシナ半島進出のためにタイのカタを持つことにしたのです。日本はフランスに圧力をかけ、メコン川右岸と西北カンボジアの一部をフランスがタイに割譲する条件で1941年5月東京条約に両国が調印をしました。

 このことによって日本はタイを自国の味方に引き入れたと考えていましたが、実際のところはタイはそう考えてはいませんでした。日本とイギリス両国と関係を結び、戦争の行方をみてから、勝利する側に入ろうと機会を伺っていたのです。日本はインドシナ半島に進出したい、イギリスはインドシナの植民地を守りたい、双方の思惑の間に入って駆け引きをすることによって、自国の利益を取ろうと考えたのです。

 イギリス、アメリカ、オランダから経済制裁を受けて物資の供給が滞った日本は、インドシナ半島のイギリスフランスの植民地から物資を略奪する目的で1941年7月仏印南部に進軍を開始します。

 12月8日、日本軍はタイ領土内を通過して進軍する交渉を行なうために、ピブーン首相に面会を求めますが、ピブーン首相はわざと会わずに国境付近に逃げてしまいます。このため、日本軍はタイの首相の許可を待たずに進軍し、タイ国内で何も知らされていなかったタイ軍と交戦状態に陥りました。
 日本軍の進軍が始まるとピブーン首相は日本軍との交渉の席に着き、国内の交戦を止めるために、やむをえなく日本軍の通過条約を締結するという形をとりました。

 さらに日本と軍事協定を結び、連合国側に宣戦布告を行ないますが、この布告書でもスイスにいる国王の代わりに3人の摂政がサインが必要なところ、2名だけのサインで一人のサインが欠落した状態で宣戦布告書を送りました。これらのことは、戦後日本軍側が連合軍側に負けたときに、やむなく戦線布告させられ無効であると証明するために有効でした。

 実際のインドシナ半島での戦闘が始まっても、日本軍へのタイの協力に対して、タイ側の得るものはほとんどありませんでした。日本軍はタイの鉄道や物資を徴収し軍を進めましたが、タイ側は提供するばかりで、物資がタイでも不足しタイ政府は日本から離れてゆきました。

 1943年11月東京で大東亜会議が開催されることになり、日本の東条英機はタイのピブーンに出席を求めますが、ピブーンはこれを拒否します。

 1944年7月ピブーンは内閣を総辞職し、首相を辞任します。そしてクアン・アパイウォンが首相に就任します。クアン首相は表面上は日本との関係を保っているようにみせかけて、裏では連合国側との協力関係も進め、自由タイという組織の活動を支援しました。

 この自由タイという組織は、そもそもタイがイギリスとアメリカに宣戦布告をしたときに、両国にいたタイの留学生が結成した抗日組織でした。留学生たちは帰国して日本の手先になって働くことをきらい、連合国側の味方をして日本からタイを開放するという目的で作られた組織でした。
アメリカでの自由タイのメンバーは87人で、そのうち21名のメンバーはアメリカの情報機関の訓練を受けて、タイへ送りこまれています。

 日本軍はこの自由タイの動きを知り、タイ政府へ圧力をかけてきましたが、1945年8月10日、日本はポツダム宣言を受諾し降伏をしてしまいました。これで一気に状況は変わり、日本と行動を共にしていたタイも敗戦国となってしまう危機が目の前に迫って来ました。はからずも戦勝国の仲間入りを目指していた逆の状況になってしまったのです。

 この状況を打ち破ったのは自由タイ運動の指導者であったプリディーでした。彼は日本の降伏の直後の8月16日に「宣戦布告書の無効宣言」を行ないました。この無効宣言のポイントは宣戦布告書に3人の摂政のうち一人のサインが無いことで、この布告書は憲法上無効であること、そしてすべては日本軍から強制されて行なわれたことであり、やむをえぬことであったということ、そして大戦中に獲得したシャン2州、マラヤ4州をイギリスに返還することを表明していました。

 アメリカは8月21日に、この無効宣言を認めることを表明しましたが、イギリスはすぐには同意しませんでした。
 この間8月17日にクアン内閣は総辞職し、8月31日にタウィー首相が暫定政権を発足、そしてすぐに9月17日セーニー内閣が成立しました。セーニー首相はもともと駐米大使で自由タイ組織の設立に大きく貢献した人物で、戦後処理をうまく行なうことが期待されていました。

 結局タイはアメリカの支援を受けてイギリスと粘り強く交渉し1946年1月にイギリスと和平条約を締結、宣戦布告の無効の確認、イギリス資産の現状復帰、ビルマとマラヤの領土をイギリスに返還、タイからイギリスへ米を150万トン供与する、との内容で決着しました。

 アメリカとイギリスとの交渉はこのようにしてまとまりましたが、最後にフランスとの交渉が残っていました。フランスはドイツから開放された後、ドゴール首相はタイに対して強硬な姿勢で臨み、大戦中に失ったインドシナの失地を戻すように迫りました。
 タイがこれを拒否したために1946年5月、フランス軍がタイ領へ攻撃をしかけます。タイは国際連合に提訴しますが、フランスの態度は強硬で、タイの国連加盟を拒否する姿勢を取りました。
 ここに来てタイはフランスの失地を返却し国連加盟と和平条約を優先することに決めます。1946年11月にフランスとの終戦協定を締結し、12月には国連加盟を実現することが出来ました。これでタイの終戦処理は終結したのです。





  


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