![]() |
|
ラッタナコーシン王朝その③ |
|
![]() ■タイ観光旅行案内所
基本情報 ┃ ┣観光旅行基本情報 ┃ ┣交通機関情報 ┃ ┣タイ観光で気をつけること ┃ ┣国王と国民の関係 ┃ ┣タイ雑貨の楽しみ ┃ ┣タイで何を食べるか バンコク案内 ┃ ┣バンコク観光案内 ┃ ┣歴史を観光する ┃ ┣バンコクでショッピング ┃ ┣文化を楽しむ ┃ ┣チャイナタウン ┃ ┣サイアムスクェアー ┃ ┣カオサン通り ┃ ┣シーロム通り ┃ ┣スクンビット通り 南北観光案内 ┃ ┣アユタヤ観光案内 ┃ ┣チェンマイ観光案内 ┃ ┣スコータイ遺跡 ┃ ┣メーホンソーン観光案内 ┃ ┣チェンライとゴールデントライアングル リゾートビーチ ┃ ┣パタヤ観光案内 ┃ ┣ホアヒン&チャアム ┃ ┣プーケット観光案内 ┃ ┣サムイ島観光案内 タイの歴史 ┃ ┣タイの歴史概略 ┃ ┣スコータイ王朝の歴史 ┃ ┣前期アユタヤ王朝 ┃ ┣後期アユタヤ王朝 ┃ ┣トンブリからバンコクへ ┃ ┣ラッタナコーシン王朝① ┃ ┣ラッタナコーシン王朝② ┃ ┣ラッタナコーシン王朝③ ┃ ┣立憲革命から第二次大戦 ┃ ┣タイ歴史年表 参考資料 ┃ ┗タイ旅行案内リンク |
![]() ■ラッタナコーシン王朝 その③ ◆ラーマ6世:ワチラーウット王(在位:1910〜25年) 1910年にチュラロンコーン王が亡くなった後を継いだのがワチラーウット王(ラーマ6世)です。王はイギリスへの留学経験があり、西欧文学や演劇に興味を持ち、翻訳や創作を行なう文学青年的な側面がある国王でした。 1908年に中国の孫文がタイを訪れました。このことをきっかけに、タイの中国人たちは中国本土の革命運動に協力するようになります。 1910年に、タイの中国人の人頭税を引き上げると、中国人の経営する商店を閉鎖してストライキが引き起こりました。 さらに1911年になると辛亥革命で中国の清朝が倒れ中華民国が設立されると、タイの王室も、国王中心の政治に対して反発する声が巷に増えだします。 この王室への反発を抑えるために、ワチラーウット王は、得意の論文で世論をかわす作戦にでます。アッサワーパーフというペンネームを使い「東洋のユダヤ人」、「タイ人よ目覚めよ」、と題した論文を発表、中国人を悪役にしてタイ人のナショナリズムをあおりました。 しかしながら、実際ワチラーウット王自身も中華の血が入っており、タイの主要輸出品である米も中国人商人がいなければ経済が廻らないというような状況下での話で、あくまでも国王中心の政治に対する批判をかわすために、中国人を悪者にしてナショナリズムを高揚させる運動を仕掛けたのが、本当の所のようです。 こうした状況の中、ヨーロッパを揺るがす、第一次世界大戦が勃発しました。タイはこの機会を利用して、なんとか戦勝国の仲間入りを果たし、ヨーロッパ列強と対等の交渉力を付けたいと考えました。 そのためには、なんとしても勝つほうの国に入らなければなりません。タイは戦争の行方を見守り、なかなか軍隊を送りませんでした。1917年4月とうとうその時が来ました。アメリカが連合国側に参戦したのです。 1917年7月タイはドイツ、オーストリア=ハンガリーに向けて宣戦布告をし、ヨーロッパ戦線に軍隊を送りました。 そして、わずかの活躍で戦勝国の仲間入りを果たすことが出来たのです。 1919年ベルサイユ講和会議に出席をしたタイは欧米列強に不平等条約の撤廃を求めました。すぐには条約改正とは行かなかったのですが、世界的に平和を求める機運が高まる中、戦勝国の一員として時間をかけて各国と交渉を行い、1929年までにすべての国との条約改正に成功することが出来ました。 また、ワチラーウット王の時代に、鉄道網も飛躍的にタイ全土に張り巡らされました。1909年にイギリスと交わした英タイ条約で手に入れた鉄道建設資金をもとに、1930年台までに、バンコクから北はチェンマイまで、東はコーンケーン、ウボン、アランヤプラテートまで開通し、タイの近代化を進めるのに大いに役に立ちました。 ◆ラーマ7世:プラチャーティボック王(在位:1925〜35年) 1925年ワチラーウット王が死亡すると、跡継ぎのいなかった兄に代わり弟のプラチャーティボックが王位を即位しました。新国王も兄と同様にイギリスに留学して軍事学を勉強し、帰国後タイの軍隊に勤務していました。 兄の時代に引き続き国王中心による統治に反対する勢力が国内に広がっていました。タイ国内だけではなく、世界中で王室中心の政治というものがなくなりつつある時代です。 プラチャーティボック王は「シャムのデモクラシー」という題で論文を書き、タイに今すぐ議会制民主主義を導入するのは不可能、しかしながら国民の望みであれば、将来は考えるべきとの考えを披露しました。 このころタイの官僚を教育する目的でヨーロッパに渡っていた官費留学生の間でも、民主化を訴える運動が盛んになり、1927年にフランスのパリで陸軍留学生のプレーク・ピブーンソンクーラムをはじめ7名の留学生により人民党が結成されました。人民党の目的は立憲革命で、クーデターによって革命を起こすことにありました。 1929年にアメリカからはじまった世界恐慌は、タイの経済にも大打撃を与え、輸出品の柱であった米の輸出量が半減し、価格の大暴落がおこりました。 国内に広がる不満と民主化要求を和らげる目的で、1931年の年末にプラチャーティボック王は立憲君主制のもと議会制民主主義の導入を謳った新憲法の起草を指示します。しかしながら翌年1932年3月の最高顧問会議での反対にあい、この憲法案は取り下げられてしまいます。 そうこうするうち、1932年6月24日人民党によるクーデター(立憲革命)が起こりました。人民党はバンコクの最高顧問会議に属する王族を人質にして、当時ホアヒンに旅行中であったプラチャーティボック王に立憲君主制への移行を迫り、絶対王政への批判を行ないました。 一時は地方部隊での抵抗を試みた国王でしたが、バンコクに戻り、6月27日人民党の要求する臨時憲法への署名に同意しました。これ以降国王は君臨すれども統治せず、立憲君主制へと変わりました。 1933年10月11日、ボーウォーラデート親王が反乱部隊を率いてタイ北東部のコラートからバンコクへ向い、ドーンムアン空港を占領します。しかし政府軍との戦闘で負け、2週間後には撤退、ボーウォーラデート親王は亡命してしまいます。 この反乱の最中ホアヒンに滞在していたプラチャーティボック王は表面的には政府を支持していましたが、実は反乱軍の勝利に期待していました。しかしながら反乱軍が負けると、政府軍を恐れて南部のソンクラーへ逃亡、その後バンコクへ戻りますが、すぐにヨーロッパへ出国して1935年3月ついに国王を退位してしまいます。 タイの国会はプラチャーティボック王の兄マヒドン親王の長男アーナンタマヒドン王を、正式な国王として承認しました。 ◆ラーマ8世:アーナンタマヒドン王(在位:1935〜46年) 前述のようないきさつで国王になったアーナンタマヒドン王ですが、即位したのはわずか9歳でスイスに滞在していました。そしてそのままスイスに滞在し続けるのです。 国王がスイスに滞在中に第2次世界大戦が勃発、いろいろないきさつから日本軍へ味方をして終戦を迎えます。本来ならば敗戦国となるタイでしたが、宣戦布告を無効にするという逆転技を使って、敗戦国の扱いから免れます。 1945年12月成人をしたアーナンタマヒドン王はタイに帰国をします。 1946年5月に複数政党制を認める新憲法に署名し制定しますが、翌月6月には王宮の寝室で頭を銃で撃ち抜かれた姿で発見されます。 ◆ラーマ9世:プーミポン王(在位1946年〜) 前述のような怪死事件の後、若干18歳であったプーミポン王が即位します。このときプミポン王はスイスで勉強中であったので、即位式のためにタイに帰国後再びスイスに戻って勉強を続けました。 その後タイ国内にもどったプーミポン王は、タイ国内の地方行幸を盛んに行い、地方の開発に自ら具体的な政策を提案するなど積極的にかかわってきました。 タイの人々に直に触れ合う国王の姿を見た国民は、プーミポン王に親しみと敬愛をもち、大勢の国民に好かれている国王として知られています。 ⇒続きはこちらです |
|
|
|
|
copyright (c) CafeSaigon. all right reserved. since2005 リンクフリー:どのページへのリンクでもOK |
|