ラッタナコーシン王朝その②

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ラッタナコーシン王朝 その②


ラーマ4世:モンクット王(在位:1851〜68年)

 モンクット王はラーマ2世の王子でラーマ3世の兄弟にあたります。ラーマ3世が国王に即位したときには出家していました。モンクットは若いときから勉強に熱心で、タイの伝統的な学問をはじめ、西洋の科学まで学び、英語を宣教師に習うなどして、国際情勢にも明るい人物でした。また、後の時代になってハリウッドやブロードウェイで「王様と私」などのミュージカルの主人公として描かれたり、1999年にはジョディーフォスターとチョーヨンファの主演で映画「アンナと王様」のなかで西洋文化を取り入れながら、タイの独立を守った国王として描かれています。


 モンクット王は1851年ラーマ3世が亡くなると、還俗して国王に即位しました。
モンクット王は即位すると、西欧の列強によって力をなくしきていた中国に変わって、ヨーロッパとの関係を強化することのほうが優先すると考え、イギリスのビクトリア女王や、フランスのナポレオン3世に親書を送りました。

 しかしながら西欧列強はモンクット王が考えるよりもアジア進出と植民地化を強力に推進し始めます。

 1855年4月タイはイギリスと修好通商条約(別名バウリング条約)を結びます。この条約はイギリスの治外法権を認め、船幅税の撤廃と新たに3%の関税の実施、イギリス人のすべての港での交易権の保障、バンコクでの居住権を認めるという、タイにとっては著しく不利な条約でした。

 この条約は日本がアメリカのペリーと結んだ修好通商条約と似かよった内容の不平等条約といえば判り易いかもしれません(日本の条約締結は1858年7月)。西欧の事情に通じていたモンクット王がこの条約を結ばざるを得なかった理由は、それほどまでに、イギリスを始め西欧の力が強かったということです。

 この条約で、王室が国内の特産品を税や買い上げによって独占的に海外へ輸出し利益を上げてきた、王室独占貿易の形態が完全に崩壊させられてしまいました。

 失われた利益を取りもどすために、以前に結んだバーネイ条約の後で出来た、主に中国人に委託してきた徴税請負制度を強化しました。しかしながら、このことが税を徴収する中国人の不正蓄財を助長することにもなってしまいました。

 また、外国によって決められた低い関税を埋め合わせるために、国内からの米の輸出を増加させる施策を行ないました。米は輸出するときに10%の関税をかけられる特例を条約できめており、これ以降タイの重要な輸出品になってゆきます。

 これ以降イギリスだけでなく他のヨーロッパ諸国とも不平等な同様の条約を結ばされることになります。

 1867年フランスはベトナムのコーチシナを獲得し、1884年にはベトナムは完全にフランスの植民地になります。1899年4月15日フランスはイギリスが後ろ盾のタイからラオスの宗主権を奪い、コーチシナ(南部ベトナム)、トンキン(北部ベトナム)、アンナン(中部ベトナム)、カンボジア、ラオスのインドシナ連邦を植民地化することに成功します。(ベトナムのフランス植民地化参照)

 インドシナ半島へのフランスの進出に脅威を覚えていたイギリスは、1886年にビルマ全土を植民地化します。インドシナ半島の東側をフランス、西側をイギリスが押さえ、その真ん中にタイがはさまれる格好で、英仏両国はにらみ合いを続けます。このために1896年に英仏両国は英仏宣言を発表し、チャオプラヤー川流域を両国の緩衝地帯にすることを決めました。かろうじてタイの領土が削られはしたものの、両国からの侵略から逃れることができる形にうまい具合になったのです。



ラーマ5世:チェラロンコーン王(在位:1868〜1910年)

 1868年モンクット王が亡くなり、王子のチュラロンコーンがラーマ5世として国王に即位します。即位した時は若干15歳であったので、成人するまでは摂生と副王を置いて実際の政治を執り行いました。

 前モンクット王の子どもらしく、外国人の家庭教師や様々な教育を受けたラーマ5世は、1873年に成人式を迎えると権力を把握し、タイの近代化のための改革を次々と勧めました。

 まず国の財政建て直しのために、国家財政局を創設し、中国人の請負人を富ませていた税金を国で管理徴収するようになりました。翌年には国政参議会と枢密院を設立し、一部の貴族によって行なわれていた国の行政権を王室が握ることに成功します。

 ラーマ5世の改革はチャックリー改革と呼ばれ、それまで各地方で有力な土着の領主から、中央集権型の統治を行なうように変革されました。チャックリーとはラッタナコーシン王朝の別の呼び方です。

 地方を各県に分けて、その上に州を置いて、中央で任命された州知事が地方を監督する方式を取り入れました。

 官僚も今まで以上に優秀な人材が必要となり、1871年官僚育成のための王立学校が設立、その後も一般庶民のための学校も開設し、広く人材を育成する体制が整いました。

 また、各地方の領主がそれぞれに持っていた軍事力も、中央で一括して調えるために、1905年に徴兵制が施行されました。

 タイの近代化を進めるために、ラーマ5世は外国人の力を使いました。財務や農業、工業、軍事や警察など各官庁に外国人の指導者を呼び寄せ、1906年には247人の外国人指導者がタイの官庁で働いていたのです。農業の指導にはイギリス人、郵便鉄道にはドイツ人などそれぞれの専門の部署が割り当てられました。その中には日本人も9人いたそうです。

 チャックリー改革のなかの目玉としては、鉄道の導入が大きい出来事です。最初に開通したのは、1897年バンコクとアユタヤを結ぶ鉄道でした。1900年にはバンコクとコラートを結ぶ線が開通しました。それまでの道路交通ではバンコクとコラート間は1ヶ月かかりましたが、鉄道の開通によってわずか1日の距離に短縮されたのです。運搬費用も大幅に軽減され、タイの東北部の特産物が新鮮で安くバンコクに集まるようになりました。

 不平等な修好通商条約の改正もラーマ5世の改革によって行なわれました。フランスとは、1907年にカンボジア北西部の土地の割譲を条件に不平等な条約の改定を行なうタイ仏条約を結びました。
 イギリスとは、1909年にマレー4州の割譲を条件にイギリス領事の裁判権の廃止とタイの鉄道建設資金の貸付を行なう英タイ条約を結びました。この条約による土地の割譲により、現在のタイランドの領地がほぼ確定したことになります。

 チャックリー改革でタイの近代化を進めたラーマ5世チェラロンコーン王は、タイの歴史上の3大権王として、現在もタイ国民から尊敬を集めています。


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