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タイの歴史

 そもそもインドシナ半島には様々な民族が小さな国を作って住んでいました。現在のタイランドの主要な民族であるタイ族もはるか北の揚子江のほとりに住んでいたタイ族が南下して、現在のタイランドの領域に小さな国を作って住み始めたのが、始まりのようです。残念ながら、その頃の詳しい歴史を帰した文章が残されていないので、はっきりとしていません。

 13世紀のインドシナ半島は、ベトナムのキン族(現在のベトナムの主要民族)はベトナム北部に国家を作っていました。ベトナムの中部はチャム族のチャンパ王国、南部はクメール族の国でした。カンボジアにはクメール帝国が強力な国家を作っていました。現在のタイの領域には北部チェンマイにはマンラーイ王が造ったランナー王国があり、その北にはビルマがというように、複数の王国が勢力を広げたり侵略されて縮小したりしながら存在していました。

 インドシナ半島で大きな力を持った国家が登場する様になった背景には、ひとつはメコン川流域の豊穣な土地で作られる農作物があったこと、そしてヨーロッパからインドを経由して中国、日本を結ぶ海のシルクロードの拠点として、交易による利益を国家が得られたことにあります。

 陸のシルクロードは中国大陸を行く陸路の西洋と東洋の交易ルートですが、海のシルクロードも、中国からインドシナ半島の先のマレー半島を横断してインド、そして地中海までもつなげる海のルートとして盛んに利用されていました。当初の海のシルクロードでは、マラッカ海峡を使わずに、マレー半島を陸路で横断する近道を利用していました。「盤盤(ばんばん)」、「狼牙脩(ろうがしゅう)」といった交易都市がマレー半島に出来、ベトナム南部にある「扶南」(現ハーティエン)と海上で結ばれて中国方面へ交易を盛んに行い発展していました。

 海のシルクロードを利用して、豊臣秀吉の時代の朱印船貿易で、はるか日本から山田長政などの商人が、タイへ来て活躍もしています。

スコータイ王朝

 13世紀になると、チャオプラヤー川のあちこちにあった小国が、シャム族(タイ族)のシーインタラーティェット王が造ったスコータイ王朝に吸収されたり、属国化したりして、ひとつにまとまってゆきました。1279年に第3代のラムカムヘーン王が登場すると、スコータイ王国は、北は現在のラオス、南は現在のシンガポールまで含んだ巨大な王国になりました。

 ラムカムヘーン王は仏教を信仰し沢山の寺院を建設したり、現在のタイ文字を作ったりした偉大な王で、アユタヤ王朝のナレースアン王、ラッタナコーシン王朝のチュラロンコーン王(ラーマ5世)と共に、3大王として現代でも尊敬されています。

アユタヤ王朝

 スコータイの南に位置するアユタヤはもともとスコータイ朝の属国でしたが、スパンブリーとロッブリーという小国から妻を迎えたウートン王は、両国の力を加えて力をつけてゆきます。3代目のバグア王の時代には1378年にとうとうスコータイ王朝を破り属国にしてしまいます。

 アユタヤ王朝は相続争いが絶えない王朝で、スパンブリーとロッブリーの出身の王家で国王の座が争われますが、1569年にビルマ軍にアユタヤを占領され、両家の血は絶えてしまいます。

 ビルマの占領から独立を勝ち取ったのが、3大王として尊敬されているナレースアン王でした。侵略してくるビルマ軍を破り独立を確実なものにすると、領土拡大の軍勢を出し、北のランナー王国、東のラオス、カンボジア、南はマレー半島のソンクラーまで、領土を拡大しました。

 海のシルクロードでの交易によって栄えてきたアユタヤですが、エーカタット王の時代になると、1767年4月力をつけてきたビルマ軍に侵略されて、400年以上続いたアユタヤ朝は終わりを告げます。

トンブリー朝からラッタナコーシン朝

 ビルマはアユタヤを侵略してすぐに中国の清朝から攻撃を受け、アユタヤから兵を引き上げなければなりませんでした。その隙を突いてタイの独立を勝ち取ったのは、チャンタブリーから軍を挙げたタークシン王でした。タークシンはアユタヤを開放した後、アユタヤではなく南のチャオプラヤー川岸に位置するトンブリで王都を建設しました。

 トンブリー王朝を開いて14年後、タークシン王はクーデターによって処刑されてしまいます。1782年彼に代わって王座についたのはラーマ1世チャオプラヤー・チャックリーでした。これが現在に続くラッタナコーシン王朝の始まりです。

 ラーマ1世は都をつくりには不向きだったトンブリーからチャオプラヤー川をはさんで北岸にあるバンコクへ王都を移しました。ラーマ1世時代に領土は拡大し、海外との交易も盛んになり、国は富み栄えました。

 そのころヨーロッパ列強はアジアに植民地を求めて盛んにタイにもやってくるようになりました。ラーマ3世の時代には、イギリスとバーネイ条約を結び、王室が独占していた貿易の特権を失うことになります。ラーマ4世の時代にはバウリング条約を結びましたが、この条約は完全な不平等条約でした。

 ベトナムやカンボジア、ビルマなどはフランスやイギリスの植民地となりましたが、タイは植民地になることはありませんでした。

 1861年にチュラロンコーン王(ラーマ5世)が即位し、チャックリー改革と呼ばれる改革を進めます。それまで地方の土着の有力者に握られていた権利を中央から派遣する官僚が代わって行なう本格的な中央集権を取り入れます。また、官僚を養成する王立学校の設立や、鉄道網の建設など、タイの近代化に大変貢献しました。さらに、外国と結ばれた不平等条約の改正にも尽力をしました。ラーマ5世は3大王として現在も国民から尊敬されています。

 ラーマ6世の時代になると、第1次世界大戦が勃発します。タイは戦勝国の仲間入りをしてヨーロッパの列強と対等に交渉が出来るようになることを目指します。1917年連合国が有利と見たタイは連合国側に入り軍隊をヨーロッパ戦線に送り、見事戦勝国になりました。その効果で、不平等条約の撤廃の交渉を行い、1929年までに、すべての不平等条約を改正することに成功しました。

 ラーマ7世の時代に入ると、国王中心の政治に反対する勢力が力をつけ、1932年6月24日人民党によるクーデターによって、立憲革命が成立し、国王が権力を持たない立憲君主制に移行しました。

 スイスに滞在中にわずか9歳で国王に即位したラーマ8世は、そのままスイスに滞在し続けるのですが、その間に第2次世界大戦が始まります。タイは様々ないきさつから日本軍側になってしまうのですが、終戦後、連合軍に対して行なった宣戦布告を無効にするという逆転技で、敗戦国になることを免れました。

 1945年12月成人したラーマ8世はタイ本国に戻りますが、翌年の1946年王宮の寝室で頭を打ち抜かれた姿で発見されます。

 この怪死事件の後即位したのは、現国王のプーミポン国王です。このときプーミポン国王はスイスで勉強中だったので、即位後スイスに再びもどり、卒業後タイ本国に戻りました。


 詳しい歴史はこの後の章を参照ください。


  


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